マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

老いの始まり

 先年、10歳ほど年上の知人と昼食に行ったとき――

 幼稚園児の列に遭遇した。
 先生たちに連れられて、一斉に帰宅するところであった。

 それをみた知人が、
「『今が一番いい時期だぞ』って、いってやりたいな」
 と、苦笑まじりにコボしたことを、今も鮮烈に覚えている。

 たしかに、隣の子供と手をつなぎ、大人たちに守られて嬉々と歩む姿は――
 やがて、大人になって、生きる苦しみに直面し――
 あるいは――
 子供を作って、育てる煩わしさを味わった者には――
 一種の羨望を呼び覚ましたに違いない。

 ――今が一番いい時期だぞ。

 の中身は、

 ――まだ、生きることの苦しみなんか、考えたこともないだろう。

 とか、

 ――まだ、育てることの煩わしさなんか、想像すらできないだろう。

 とかいうことである。

 もちろん、子供たちにも、それなりの悩みが、あるには違いないのだが――
 たぶん、まだ言語化されるほどには、顕現していない。
 そこが何とも羨(うらや)ましい。

 やがて――
 子供たちは、大人になろうと、必死に足掻(あが)く――
 あるいは、必死に足掻くまいと、必死になる。

 それこそが、老いの始まりである。

 老いとは、老いを御(ぎょ)さんと欲するところに端を発する。

 ――年寄りだと思ってバカにするな!

 と叫ぶのが、最も端的な老いである。

 大人でも子供でも――
 事情は同じであろう。

 やがて子供は、大人になることを御さんと欲する。

 大人になるということは、本来、人知をこえた象(かたど)りだ。
 好むと好まざるとに関わらず、子供は大人になっていく。

 にもかかわらず、そこに人知を挟むのは――
 さながら、生老病死を操らんがごときである。

 その愚かさに、子供は気づかない――生老病死に迫られるまでは、気づかない。
 迫られてなお、気づかない――気づきたくはない――気づかされたがらない――
 そうやって、必死に大人になろうとする――あるいは、大人になるまいとする――
 それこそが、老いの始まりである。

 あの日、列をなした幼稚園児たちに――
 その種の老いの兆しは、とうてい感じられなかった。

 必死に大人になろうとも、また、必死に大人になるまいとも、足掻いていなかった――
 おそらくは――

 だからこそ、僕は知人の言葉に、大いに同感したのである。

 ――今が一番いい時期だぞ。

 との念押しに――

 今も、心から、そう思う。