マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

2020-11-01から1ヶ月間の記事一覧

林則徐――蒙昧な道化か義侠の名将か

――「アヘン戦争の英雄」と称えられる林(りん)則徐(そくじょ)は、不思議な人物である。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 その“不思議”は―― 時代の流れがよめていなかったようで、実は、よめていたようなところに―― 端を発しています。 …

林則徐は、なぜアヘンの完全根絶に踏み切ったのか

――アヘン戦争で決定的な役割を担ったのは、林(りん)則徐(そくじょ)ではなく、道光(どうこう)帝である。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 ふつうは、 ――アヘン戦争 といえば、 ――林則徐 です。 ――アヘン戦争の英雄 といういい方がさ…

道光帝はアヘン戦争で決定的な役割を担った

――アヘン戦争を語る上で必須の人物は2人いて、そのうちの1人が道光(どうこう)帝である。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 こう述べると、 ――道光帝? 道光帝は、そんなに深くは関わっていない。深く関わったのは林(りん)則徐(そく…

林則徐と道光帝――アヘン戦争を語る上で必須の人物

アヘン戦争を語る上で必須の人物が2人います。 1人は、 ――林則徐 です。 日本語圏では、 ――りん・そくじょ と呼ばれます。 戦争勃発時、いわゆるアヘン問題を担当する特命全権大臣でした。 この特命全権大臣のことを当時は「欽差(きんさ)大臣」と呼んで…

アヘン戦争の種火

アヘン戦争を、 ――不幸なる中国近現代史の始発点 と、みなすのは皮相的であり―― その真の始発点は、西欧列強が東アジアへ来航を始めた15世紀ないし16世紀頃に求める必要がある―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 15世紀ないし16世紀頃―― …

アヘン戦争は“不幸なる中国近現代史の始発点”か

西欧列強が覇権国家として世界に君臨をしようとしていた事実に、中国大陸の皇朝・清が気づいたのは、1840年に始まったアヘン戦争の頃であると考えられる―― ということを、11月16日の『道草日記』で述べました。 アヘン戦争は、 ――不幸なる中国近現代史の始発…

その差は「五十歩百歩」でしかなかった

キリスト教の流布を先触れとする西欧列強の侵略に対し―― 中国大陸の皇朝・清は当初は深刻な懸念をもっていなかったが、日本列島の豊臣政権は当初から深刻な懸念をもっていたのではないか―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 …… …… もし―― …

皇朝・政権の樹立とキリスト教の禁止との時系列

“満州地域”に興った皇朝・清は、 ――海洋国家ではなかったこと および、 ――中華思想(華夷思想)に染まっていたこと から―― 日本の豊臣政権による西欧列強の脅威に対する懸念は、共有されていなかったと考えられる―― ということを、きのうの『道草日記』で述…

中華思想が西欧列強の脅威を眩ました

――豊臣政権による西欧列強の脅威に対する懸念は、“満州地域”の政権に共有されなかったと考えられる。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 その理由として、 ――“満洲地域”に興った清は、海洋国家ではなかったために、西欧列強がキリスト教の流…

豊臣政権の懸念は“満州地域”の政権に共有されたか

豊臣秀吉が、いわゆる朝鮮出兵によって、明の都を本気で攻め落とそうとしていたことは―― 10月9日の『道草日記』で述べた通りです。 その目的は、おそらく、 ――西欧列強による植民地化の予防 であったということは―― 10月10日の『道草日記』で述べています(…

康熙帝は、ある意味で豊臣秀吉に似ている

――清の康熙(こうき)帝は、“感情の分布図”において、原点に近いところに配される指導者という意味で、日本の徳川家康や伊達政宗に似ている。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 類似点としては、その通りなのですが―― では―― 相違点は、ど…

康熙帝は“感情の分布図”の原点の近くに配される指導者

――清の乾隆(けんりゅう)帝は、本質的には何もしない指導者であった。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 …… …… 乾隆帝には、ちょっと酷ないい方でした。 僕は、11月15日の『道草日記』で述べたように、乾隆帝のことが、どちらかといえば…

康熙帝の時代――乾隆帝なら、どうなっていたか

――清の乾隆(けんりゅう)帝の時代に、もし、その祖父・康熙(こうき)帝が皇朝を統べていたなら、海禁は見直され、その後の西欧からの外圧に抗いうる素地が作られていたであろう。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 では―― その逆は、ど…

乾隆帝の時代――康熙帝なら、どうしていたか

――清の乾隆(けんりゅう)帝が本物の名君であれば、ただ“三世の春”の謳歌に満足をすることなく、海禁の政策を改め、西欧の覇権国家に抗いうる素地をいち早く作ったに違いない。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 こう述べると、 ――そんな…

乾隆帝が本物の名君であれば……

――清の乾隆(けんりゅう)帝は、深い考えもなく、ただ何となく遠征を始めたようなので、君主としてのスジが悪かったのではないか。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 このように述べると、 ――なぜ「深い考えもなく、ただ何となく遠征を始…

乾隆帝は実は暗君ではなかったか

――清の乾隆(けんりゅう)帝が名君であるには、認知症の病前対応を適切にとることが必要であった。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 ただし―― それは、現代医療に与れる僕らにとってさえ、かなり困難なことであり、18世紀を生きた乾隆帝に…

乾隆帝が名君であるには何が必要であったか

――清の乾隆(けんりゅう)帝は、君主としての退き際を間違え、後世の名声を失ったので、名君ではありえない。 ということを、11月10日の『道草日記』で述べました。 では―― 乾隆帝が名君であるには何が必要であったでしょうか。 もちろん―― 君主としての退き…

『三世の春』という名の映画は……

――清の最盛期を指す文言「三世の春」は、康熙(こうき)帝が名君であることを示すと同時に、乾隆(けんりゅう)帝が名君でないことも示している。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 こう述べると、 ――乾隆帝こそ中国史上最高の名君であっ…

康熙帝が名君である根拠「三世の春」

――清の康熙(こうき)帝は、孫の乾隆(けんりゅう)帝と違って、晩節を汚さなかったので、名君でありうる。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 ――名君でありうる。 とは―― 要するに、 ――名君でないとはいえない。 ということであり―― つまり…

康熙帝が名君でありうる理由

――清の乾隆(けんりゅう)帝は、君主としての退き際を間違えたので、名君ではありえない。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 一方―― 10月28日の『道草日記』では―― 乾隆帝の祖父・康熙(こうき)帝は中国史上最高の名君であった、と―― 述べ…

乾隆帝が名君でありえない理由

――明君は特定の時代の人々に称えられ、名君は任意の時代の人々に称えられる。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 一方―― おとといの『道草日記』では、 ――清の乾隆(けんりゅう)帝は、“明君”ではあったが、“名君”ではなかった。 と述べて…

「明君」と「名君」との違い

――清の六代目の君主・乾隆(けんりゅう)帝は、“明君”ではあったが、“名君”ではなかった。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 ――明君 と、 ――名君 との違いは何か―― もちろん―― 表面上の違いは簡単です。 ――明君 は「賢明な君主」で、 ――名…

乾隆帝は“明君”ではあっても“名君”ではない

清の君主について―― “感情の分布図”というものを考えたときに―― 初代ヌルハチは、“勇・喜”領域に配される人物であり―― 二代ホンタイジは、“喜・怯(きょう)”領域に配される人物であり―― 三代・順治(じゅんち)帝や四代・康熙(こうき)帝、五代・雍正(よ…

創成には“喜”、守成には“憂”――

――清の君主について、初代ヌルハチや二代ホンタイジには気質に明るさが感じられるが、三代フリン以後(三代、四代、五代)には気質に明るさが感じられない。むしろ暗さが感じられる。 ということを―― 10月28日の『道草日記』で述べました。 三代は世祖・順治…

雍正帝には“嫌われる勇気”があった

――清の世宗・雍正(ようせい)帝は、祖父・順治(じゅんち)帝によく似て、“憂”の中に“勇”を秘めていた指導者ではなかったか。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 こう述べると、 ――兄弟を追いやったり、功臣を殺したり、官僚を締め上げた…

雍正帝の気質は、祖父・順治帝にそっくりではなかったか

――清の世宗・雍正(ようせい)帝の気質には、父・康熙(こうき)帝とは少し違った暗さがある。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 康熙帝は―― おとといの『道草日記』で述べたように、 ――“勇”の陰に“憂”を帯びていた―― と、いえます。 一方―…

雍正帝の気質の暗さは、康熙帝とは違う

――清の世宗・雍正(ようせい)帝は、父・康熙(こうき)帝の後継の座を勝ち得たたときに、実に際どい勝ち方をした。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 まず確認をしておきたいことは―― きのうの『道草日記』で述べた通り―― 康熙帝は、2度の…

康熙帝の後継者

――清の世祖・順治(じゅんち)帝は、“憂”の中に“勇”を秘めていた指導者であり、不安を感じやすい人々が多数派を占める日本列島では、なかなか現れにくい指導者であった。 ということを―― 10月29日の『道草日記』で述べました。 順治帝の子である康熙(こうき…

康熙帝の抑え難かった“怒”の感情

清の聖祖・康熙(こうき)帝は、 ――三藩の乱 に際し、実に果断に対処をした―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 そうした対処が可能であったのは―― 三藩の乱を起こした明の元将軍たちに対する強い“怒”の感情があったため、と―― 僕は考えて…

康熙帝は勇みやすい性格であった

清の聖祖・康熙(こうき)帝の気質の暗さについて―― きのうの『道草日記』で述べました。 こうした暗さは―― もちろん―― 康熙帝が喜気の強い人物ではなかったことを示すと考えられます。 むしろ、いくらかの“憂気”を含んでいた、と―― …… …… 父・順治(じゅん…