――明君は特定の時代の人々に称えられ、名君は任意の時代の人々に称えられる。
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
一方――
おとといの『道草日記』では、
――清の乾隆(けんりゅう)帝は、“明君”ではあったが、“名君”ではなかった。
と述べています。
このことは――
乾隆帝が特定の時代の人々には称えられたが、その他の時代の人々には称えられていない、ということを意味しています。
乾隆帝より後の時代の人々は――
多かれ少なかれ、渋い評価をしています。
なぜか――
乾隆帝が晩節を汚しているからです。
……
……
乾隆帝は満88歳まで生きました。
晩年は耄碌(もうろく)をしたといわれます。
おそらく、認知症を発していたのでしょう。
認知症は病気ですから――
そのこと自体は、仕方のないことです。
が――
政治は結果が全てといわれます。
乾隆帝は、認知症を発していたとみられる時期に、後世の名声を失う決定的な過ちを犯しました。
母方の親族の一人で自分よりも40歳ほど若い男を、重く用い――
しかも、その男が宮廷で専横を極め、陰で私腹を肥やしていたにもかかわらず、そのことに気づけず、終生、野放しにしてしまったのです。
やがて、乾隆帝以外の全ての者が、事態に気づき――
気づかぬのは乾隆帝ただ一人、という状況になってしまいました。
認知症を発していたなら、どうしようもなかったといえますが――
それにしても、ちょっと酷すぎました。
その男が溜め込んだ私財は――
当時の国家予算の15年分であったといわれています。
まさに、
――裸の王様
です。
このようなデタラメが――
乾隆帝の治世の末期には、まかり通ってしまいました。
当然ながら――
皇朝としての隆盛は陰り始めます。
以後――
清は緩やかな滅亡への道を歩み始めるのです。
その一方――
衰退期にも導きました。
乾隆帝が名君でありえない理由は――
他にも幾つか挙げることはできます。
が――
最も大きな理由は、
――君主としての退き際を間違えたから――
です。
乾隆帝より後の時代の人々は――
そのことに目をつぶるのが極めて難しいのです。