2023-01-01から1ヶ月間の記事一覧
人工知能のことは―― 正直にいいますと―― とくに興味はありませんでした。 もちろん―― 時代の潮流に乗っている科学技術ですから、通り一遍の興味はもっていましたが―― あえて『道草日記』で話題に持ち出そうと思えるほどの興味はありませんでした。 が、 (最…
君主(sovereign)型の人工知能は、 ――中庸 の性質――あるいは、機能――を備えるのがよい―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 ここでいう、 ――中庸 とは、 ――愚かでも賢くもないこと であり―― その内実は、 ――いかなる主観にとっても、未来に…
中庸を備えた人工知能は、人に損害を齎(もたら)さない一方で、利益も齎さないことから、有用な機械ではありえない―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 たしかに―― 人工知能が人の役に立つ機械であるためには―― その中庸の程度は、 ――ほど…
――人と人工知能とが「良好な関係」を保ち続ける。 というときの、 ――「良好な関係」を保つ。 とは、 ――人工知能が人にとって使い勝手のよい機械であり続ける。 ということである―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 そのような関係を保つに…
囲碁や将棋で勝率 50 %を目指す人工知能を創り出すことが―― 人と人工知能との末永い厚誼には必要であろう―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 ――勝率 50 %を目指す。 ということは、 ――どんなに強い相手でも、どんなに弱い相手でも、勝ち…
いかなる主観にとっても、未来における任意の時点において、利益もなく、損害もない―― あるいは―― 利益と損害とが相殺をし、 ――プラスマイナス・ゼロ になっている―― そのような状況を目指そうとする性質が、 ――愚かでも賢くもない。 ということである―― と…
――愚かでも賢くもない。 とは、どういうことかを弁えることが―― 今後 100 年以上、人が人工知能と巧く付き合っていくためのカギを握る―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 そもそも、 ――愚か とか、 ――賢い とかいった性質は、どういうこと…
――人工知能と中庸―― について考えています。 これからの時代―― 人が人工知能を巧妙かつ安全に用いていくには、 ――中庸 の概念が重要であると―― 僕は考えています。 今後―― 人が人工知能と末永く――例えば、100 年とか 300 年 とか 1,000 年とか、あるいは、10…
人工知能は、本来、 ――神託(oracle)型 であろうと、 ――ジーニー(Genie)型 であろうと、 ――君主(sovereign)型 であろうと―― ――積極的な中庸 の実践には向いている―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 そうではあるものの―― ――積極的な…
神託(oracle)型の人工知能は、 ――積極的な中庸 には打ってつけである―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 実際には、 ――神託型 に限らず、他の2つの型、 ――ジーニー(Genie)型 ――君主(sovereign)型 であっても、 ――打ってつけ といえ…
国家元首や巨大企業の最高経営責任者などに求められる、 ――積極的な中庸 というのは、 ――最終の決定は常に人が下す。 という規則さえ設けていれば、 ――神託(oracle)型 の人工知能でも十分に担える―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 な…
――積極的な中庸 は、自然知能には不可能であるけれども、人工知能には可能であるかもしれない―― ということを―― 1月17日の『道草日記』で述べました。 ここでいう、 ――積極的な中庸 とは―― 1月14日の『道草日記』で述べた通り、 愚かさ > 賢さ ないし、 愚…
――政治 では、 ――中庸 が本質である―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 そして―― その、 ――中庸 は面白くない、とも―― …… …… そうであるからでしょう。 僕が『道草日記』で政治のことを述べると、 ――ぜんぜん面白くない。 という意見が、…
(中庸は面白くない) と思います。 ――中庸 は、1月13日の『道草日記』で述べた通り、本来は、 ――何事にも偏らず、常に変わらないでいること あるいは、 ――過不足がなく、調和がとれていること といった意味です。 ところが―― この概念を、 ――愚かさ や、 ――…
生身の人に、 ――積極的な中庸 の永続は無理であろう―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 ――積極的な中庸 とは、 愚かさ > 賢さ ないし、 愚かさ < 賢さ が成り立っている下で―― より低い方を、より高い方へ合わせることによって、 愚かさ…
――積極的な中庸 とは、 愚かさ > 賢さ ないし、 愚かさ < 賢さ が成り立っている下で―― より低い方を、より高い方へ合わせることによって、 愚かさ ≒ 賢さ の凡庸を装うことであり―― ――消極的な中庸 とは、 愚かさ > 賢さ ないし、 愚かさ < 賢さ が成り…
――積極的な中庸 が求められる場合と、 ――消極的な中庸 が求められる場合とがある―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 ――積極的な中庸 とは、 愚かさ > 賢さ ないし、 愚かさ < 賢さ が成り立っている下で―― より低い方を、より高い方へ合…
――中庸 とは、 ――意識的な凡庸 である―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 つまり、 ――知性 が高く、 愚かさ > 賢さ ないし、 愚かさ < 賢さ である人――つまり、凡庸ではない人――が、意識をして凡庸であろうとすること――つまり、 愚かさ …
――愚かさは賢さの対極にある。 と一般には考えられていますが―― 実は、賢さの対極にあることは、愚かさの対極にあることと同じであり―― それは、 ――愚かでも賢くもないこと つまり、 ――凡庸 である―― ということを、1月4日の『道草日記』で述べました。 この…
知性 = 愚かさ × 賢さ の図式からいえることは―― 愚かさがゼロに近づけば――たとえ、どんなに賢さが大きかったとしても――知性はゼロに近づく、ということである―― ということを、1月10日の『道草日記』で述べました。 つまり―― 賢さだけでは、 ――知性 とはい…
――知性 とは、たんなる賢さのことではなく、 知性 = 愚かさ × 賢さ の図式で表されるような概念である―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 一方―― 1月8日の『道草日記』で述べた通り、 ――知性 とは、 ――合目的性 であるともいえます。 つ…
知性 = 愚かさ × 賢さ の図式を―― きのうの『道草日記』で述べました。 この図式からいえることは―― なかなかに興味深いといえます。 愚かさがゼロに近づけば―― どんなに賢さが大きかったとしても――賢さが無限大でもない限り―― 知性はゼロに近づきます。 つ…
――知性 とは、 ――目的がわかっているらしいということ であり―― それは、 ――合目的性 つまり、 ――何らかの目的に合致をしているようにみえること である―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 ところで―― ――知性 という言葉は、 ――賢さ と同…
――知能 とは何でしょうか。 それは―― 日本語で考える限り―― 明らかです。 ――知を働かせる能力 のことです。 では、 ――知 とは何か―― それは、 ――わかるということ です。 2022年12月25日以降の『道草日記』で ――知能には合目的性が感じられる ということを繰…
――愚かさ とは、 ――知能が目的を成しえない様子 である、ということを―― 1月2日の『道草日記』で述べました。 その目的が、 ――個の生存 であれば―― 愚かか否かの判断は、比較的に容易です。 その知能を備えている個体が―― もし生存に失敗をすれば―― ――愚かで…
――愚かさと賢さとは表裏一体である。 ということは、空中を飛ぶ昆虫の走光性の観点から考えると、よくわかる―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 昆虫の走光性は、 ――合目的性 が感じられることから、 ――知能 の一種といえますが―― この性…
――愚かさと賢さとは表裏一体である。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 このことは―― 例えば、空中を飛ぶ昆虫の走光性を考えると―― よくわかります。 昆虫には、空中を飛ぶものと飛ばないものとがあり―― 飛ぶ昆虫の多くには、“正の走光性”…
――愚かさは結果論でしかわからない。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 また―― 同様に、 ――賢さも結果論でしかわからない。 とも―― …… …… 以上のことからいえるのは、 ――愚かさと賢さとは表裏一体である。 ということです。 一般に、 ――愚…
――愚かさ とは、 ――知能が目的を成しえない様子 である―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 いま、 ――目的を成しえない―― と現在形で述べましたが―― 実際には、 ――知能が目的を成しえなかった様子 というように過去形で述べるほうが妥当で…
――愚かさ を考える上で容易に外せない概念がある、と―― 僕は考えています。 ――知能 です。 ここでいう、 ――知能 とは―― 12月23日の『道草日記』で述べたように―― 広義の「知能」です。 ――本能 も含めた概念であり―― ヒト以外の生物種も備えている性質です。 …