――積極的な中庸
が求められる場合と、
――消極的な中庸
が求められる場合とがある――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
――積極的な中庸
とは、
愚かさ > 賢さ
ないし、
愚かさ < 賢さ
が成り立っている下で――
より低い方を、より高い方へ合わせることによって、
愚かさ ≒ 賢さ
の凡庸を装うことで――
――消極的な中庸
とは、
愚かさ > 賢さ
ないし、
愚かさ < 賢さ
が成り立っている下で――
より高い方を、より低い方へ合わせることによって、
愚かさ ≒ 賢さ
の凡庸を装うことです。
ここで――
1月9日の『道草日記』で述べた、
知性 = 愚かさ × 賢さ
の図式を踏まえるならば――
――積極的な中庸
が実践をされる場合には、愚かさや賢さが、より高い方に合わせられるので――
知性の高さが顕示をされ――
――消極的な中庸
が実践をされる場合には、愚かさや賢さが、よい低い方に合わせられるので――
知性の高さが隠匿をされる――
といえます。
ところで、
――積極的な中庸
が求められる場合と、
――消極的な中庸
が求められる場合とで、何が違うのでしょうか。
……
……
簡単にいってしまうと、
――求められる卓越性の程度
です。
あるいは、
――求められる指導性の程度
といってもよいでしょう。
……
……
もし、あなたが中庸を求められた場合に――
そこで、あなたが自分の卓越性や指導性を周囲に感じさせる必要があるのなら、
――積極的な中庸
をとる必要があります。
国家元首や巨大企業の最高経営責任者など、社会全体への幅広い影響力の行使が期待をされている個人に求められる中庸の多くは――
こちらです。
逆に、あなたが自分の卓越性や指導性を周囲に感じさせる必要がないのなら、
――消極的な中庸
で構いません。
一個の私人として日常を過ごす上では、必ずしも“積極的な中庸”を採る必要はありません。
もちろん――
日常的に“積極的な中庸”を採ってもよいのですが――
――中庸
の実践というのは、常に意識をしていないと巧くいかないので――
気力や体力を要します。
――積極的な中庸
に至っては、なおのこと、気力や体力の充実と、その維持とが必要です。
おそらく――
生身の人に、
――積極的な中庸
の永続は無理です。