――中庸
とは、
――意識的な凡庸
である――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
つまり、
――知性
が高く、
愚かさ > 賢さ
ないし、
愚かさ < 賢さ
である人――つまり、凡庸ではない人――が、意識をして凡庸であろうとすること――つまり、
愚かさ ≒ 賢さ
であろうと務めること――
それが
――中庸
である、と――
……
……
一方で、
――知性
が高くはなく、
愚かさ ≒ 賢さ
である人――つまり、凡庸である人――が、ただ無意識に凡庸のままであることは、
――中庸
ではない、と――
……
……
このように述べると、
――凡庸な人には中庸であることが不可能なのか。
との疑問が生じます。
もちろん、不可能ではありません。
凡庸である人が――
ただ無意識に凡庸のままであるのではなく――
意識をして凡庸のままであろうとするならば――
それは、十分に、
――中庸
といえます。
――中庸
とは、
――意識的な凡庸
である――
というのは、そういう意味です。
いいかえるならば――
愚かさ > 賢さ
や、
愚かさ < 賢さ
の偏りを意識的に正すこと――
あるいは、
愚かさ ≒ 賢さ
の釣り合いを意識的に保つこと――
それが、
――中庸
です。
……
……
ここで興味深いのは、
愚かさ > 賢さ
や、
愚かさ < 賢さ
の偏りを意識的に正すには2つのやり方がある――
ということです。
高い方に合わせるのか――
低い方に合わせるのか――
の2つです。
例えば、
愚かさ > 賢さ
であれば、賢さを高めるのか、愚かさを低めるのか――
あるいは、
愚かさ < 賢さ
であれば、愚かさを高めるのか、賢さを低めるのか――
……
……
高い方に合わせるのが、
――積極的な中庸
であり――
低い方に合わせるのが、
――消極的な中庸
である――
といってよいでしょう。
では、
――積極的な中庸
と、
――消極的な中庸
とでは、どちらが好ましいのか――
……
……
一見、
――積極的な中庸
のほうが好ましいように感じられますが――
僕は、
(その時の事情に依る)
と考えています。
つまり――
どちらの中庸が好ましいのかを一概に決めることはできず――
――積極的な中庸
が求められている場合があれば、
――消極的な中庸
が求められている場合もある――
ということです。