マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

中庸:意識的な凡庸

 ――愚かさは賢さの対極にある。

 と一般には考えられていますが――

 実は、賢さの対極にあることは、愚かさの対極にあることと同じであり――

 それは、

 ――愚かでも賢くもないこと

 つまり、

 ――凡庸

 である――

 ということを、1月4日の『道草日記』で述べました。

 

 このような観点で、

 ――凡庸

 を捉えると――

 この概念とよく似ている概念のことが、ある程度わかるようになります。

 

 その概念とは、

 ――中庸

 です。

 

 ……

 

 ……

 

 ――中庸

 は、ときに、

 ――凡庸

 と同義にみなされることもあるのですが――

 元来は、

 ――何事にも偏らず、常に変わらないでいること

 あるいは、

 ――過不足がなく、調和がとれていること

 といった意味でした。

 

  知性 = 愚かさ × 賢さ

 の図式を踏まえると――

 

 ――知性

 が、

  愚かさ ≒ 賢さ

 であるならば、

 ――凡庸

 となります。

 

 一方で、

 ――知性

 が、

  愚かさ > 賢さ

 ないし、

  愚かさ < 賢さ

 であるときに――

 意識をして、

  愚かさ ≒ 賢さ

 であろうと務めることが、

 ――中庸

 です。

 

 一般に、

 ――知性

 は、

  愚かさ ≒ 賢さ

 であれば、高くはなく、

  愚かさ > 賢さ

 ないし、

  愚かさ < 賢さ

 であれば、高い傾向にある――

 と考えられます。

 

 つまり――

 知性が高くはなくて、

 ――凡庸

 である人が、ただ無意識に凡庸のままであることを、

 ――中庸

 とはいわないのです。

 

 そうではなくて――

 知性が高く、

 ――凡庸

 ではない人が、意識的に凡庸であろうと努めることを、

 ――中庸

 というのです。

 

 要するに、

 ――中庸

 とは、

 ――意識的な凡庸

 です。

 

 あるいは、

 ――あえて凡庸を装うこと

 です。

 

 ――あえて――

 というのは、

 ――何らかの目的があって――

 という意味です。