2020-02-01から1ヶ月間の記事一覧
世 ・ 身 ・ ・ 我 ・ 心 という環を、より詳しく記すならば、 人の世 ・ 我が身 ・ ・ 今の我 ・ 我が心 もしくは、 人の世 ・ 我が身 ・ ・ 某の我 ・ 我が心 であろう、ということを―― おととい、きのうの『道草日記』で述べました。 最大の示唆は、 ――“…
世 ・ 身 ・ ・ 我 ・ 心 という環にある「世」「身」「心」「我」へ、それぞれ修飾語をつけるとしたら、どうなるか―― 「身」や「心」には「我が」をつけて、 ――我が身 ――我が心 であり―― 「世」には「人の」をつけて、 ――人の世 である―― と、きのうの『道…
世 ・ 身 ・ ・ 我 ・ 心 という環を眺めていると―― 色々なことを感じ、考えます。 日本語では――おそらくは中国語でもそうですが――基本的ないし原理的な概念は、漢字1字で表される傾向にあります。 それゆえに、「世」「身」「心」「我」と漢字1字で記して…
世 ・ 身 ・ ・ 我 ・ 心 という環は―― 「我」が「世」の方を向こうとする本性――本来の性質――によって駆動され―― つねに時計回りであろうとする―― ということを―― この4日間の『道草日記』で繰り返し述べています。 “世”が“身”を生み、“身”に“心”が宿り、“…
世 ・ 身 ・ ・ 我 ・ 心 という環と和歌との関連について―― もう少し述べたいと思います。 きのうの『道草日記』で、 世 ・ 身 ・ ・ 我 ・ 心 という環を反時計回りにするのは、ほどほどにするのがよい―― と述べました。 このことは―― 環の向きと和歌の叙…
世 ・ 身 ・ ・ 我 ・ 心 という環は、放っておけば、つねに時計回りになる―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 その時計回りの駆動力は、おそらくは「我」です。 きのうの『道草日記』で述べたように、「我」は、「心」の方ではなく、「世…
――我を強く意識する。 とは、 ――己を意識しなくなる。 ということである、と―― きのうの『道草日記』で述べました。 すぐにおわかりのように、 ――己 とは―― 要するに、 ――身 や ――心 のことです。 世 ・ 身 ・ ・ 我 ・ 心 という環にある「身」や「心」のこ…
藤原道長と紫式部との違いは、 ――日頃どれくらい強く“我”を意識していたかどうかの違い である、ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 ここでいう、 ――我を強く意識する。 とは、どういう意味か―― 決して、 ――己を厳しく省みる。 という意味で…
世 ・ 身 ・ ・ 我 ・ 心 という環について―― 藤原道長は、 この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば の和歌によって、「我」と「心」との間を切り離し―― 紫式部は、 数ならで 心に身をば まかせねど 身にしたがふは 心なりけり の和…
平安中期に詠まれたとされる2つの和歌―― 藤原道長の、 この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば と―― 紫式部の、 数ならで 心に身をば まかせねど 身にしたがふは 心なりけり とについて―― 17日以降、『道草日記』で繰り返し述べてい…
世 ・ 身 ・ ・ 我 ・ 心 という環をみて―― 僕が、 この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば の和歌を思い浮かべたのは―― おとといの『道草日記』で述べたように―― 「世」と「我」との2字が用いられているからです。 一方、 世 ・ 身…
平安中期の摂政・藤原道長が詠んだとされる和歌、 この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば について―― きのうの『道草日記』で触れました。 この和歌は、一般には、驕(おごり)り高ぶった権力者の本音が透けてみえていると解釈され…
日本語を用いるのであれば、 世界 ・ 身体 ・ ・ 自我 ・ 精神 という環で考えるよりも、 世 ・ 身 ・ ・ 我 ・ 心 という環で考えるほうがよいのではないか、ということを―― おととい以降、『道草日記』で繰り返し述べています。 …… …… 世 ・ 身 ・ ・ 我 …
日本語で考えるならば、 世界 ・ 身体 ・ ・ 自我 ・ 精神 ではなく、 世 ・ 身 ・ ・ 我 ・ 心 と記すほうがよいのではないか、ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 すぐにわかることは、 ――世界 と、 ――世 との違いです。 「身体」と「身」…
世界 ・ 身体 ・ ・ 自我 ・ 精神 という環をみていると、色々なことに気づく―― ということを、おとといの『道草日記』で述べました。 …… …… この環をみていると、 (なんだか西洋的だなぁ) と感じます。 少なくとも、僕はそうです。 ――世界 とか、 ――身体 …
一神教の文化圏では、 神 ・ 世界 ・ 身体 ・ 自我 ・ 精神 ・ という環が想定されたのに対し―― 多神教の文化圏では、たんに、 神々 ・ 世界 ・ 人々 という線が想定されるにとどまったではないか―― ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 この…
世界→身体→精神→自我→世界→…… という環について―― あるいは、 世界 ・ 身体 ・ ・ 自我 ・ 精神 という環について―― おととい以降、『道草日記』で繰り返し述べています。 この環をみていると―― 色々なことに気づきます。 例えば―― 中世までの一神教の文化圏…
――時間のクオリア(qualia) のことを考えていると、 世界→身体→精神→自我→世界→…… という環のことが気になってくる―― ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 世界→身体→精神→自我→世界→…… と記すと―― あまり環のように感じられないので―― 以下…
――時間のクオリア(qualia) のようなことについて考えていると、 ――どこから議論を始めるのがよいか。 という問いが気になってきます。 古来―― 少なくとも西洋では―― おそらくは漠然と、以下のように考えられてきました。 ――はじめに世界が在って、世界が身…
――「時間のクオリア(qualia)」とは、五感の全てが遮断された際に感じられる何かである。 と、3日前の『道草日記』で述べました。 それゆえに、 ――“時間のクオリア”は、様々なクオリアのなかで、最も基本的なクオリアではないか。 とも述べました。 ここで…
――時間のクオリア(qualia) という概念があって、それは、 ――時が流れている感じ である―― などといえば―― 察しの良い方は、すぐに、 ――それって、つまりは、ベルクソンのいった純粋持続みたいなことでしょ? と指摘されるに違いありません。 「ベルクソン…
――感覚が“感覚の痕跡”と照らし合わされることなく、ただ“感覚の模型”が関わることによってのみ意識が働く、ということはありえないが、“感覚の模型”が関わらなければ、“意識の働き”は本質を欠く。 ということを―― 3日前の『道草日記』で述べました。 この場…
――“時間のクオリア(qualia)”は、様々なクオリアのなかで、最も基本的なクオリアではないか。 と、きのうの『道草日記』で述べました。 …… …… ――時間のクオリア とは何か―― きのうの『道草日記』では―― ひとまず、 ――時が流れている感じ とか、 ――「あぁ。…
――“感覚の模型”という概念は、意識の働き――とりわけ、クオリア(qualia)の体験――を考える上では、感覚や“感覚の痕跡”に劣らず、なかなかに大切な概念である。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 この“感覚の模型”という概念は―― 1月30日の…
――感覚が“感覚の痕跡”と絶え間なく照らし合わされ続け、何らかの相関性が見出され続けることこそが、“意識の働き”であり、そのような働きにおいて、“感覚の模型”は、感覚と“感覚の痕跡”とが照らし合わされるのを助ける役割を果たしている。 ということを―― …
――感覚 も、 ――感覚の痕跡 も、 ――感覚の模型 も、すべて“神経細胞によって伝達される信号”である―― ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 一方で―― 1月11日以降の『道草日記』で―― 僕は、 ――感覚が“感覚の痕跡”と絶え間なく照らし合わされ続…
――感覚 とは、 ――神経細胞によって伝達される信号 であるから―― ――感覚の痕跡 とは、 ――“神経細胞によって伝達される信号”の痕跡 であり―― この“痕跡”は、“神経細胞によって伝達される信号”へ還元されうるはずである―― ということを―― 1月11日の『道草日記』…
――“地面に立っている人”は、目の前の“車”と足元の“轍(わだち)”と目の前の“厚紙の車”とから、“車の通り道”の存在を思い浮かべるだけであって、“車の通り道”それ自体の存在を確かめることはできない。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 こ…
“感覚の痕跡”は、 ――地面に残された轍(わだち) であり―― “感覚の模型”は、 ――地面に置かれた厚紙の車 である―― という喩えを―― きのうの『道草日記』で述べました。 ここでいう「地面」とは「脳」の喩えであり、「車」とは「感覚」の喩えです。 「地面に立…