――感覚が“感覚の痕跡”と絶え間なく照らし合わされ続け、何らかの相関性が見出され続けることこそが、“意識の働き”であり、そのような働きにおいて、“感覚の模型”は、感覚と“感覚の痕跡”とが照らし合わされるのを助ける役割を果たしている。
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
その“助ける役割”は、
――補助的ではあるが、本質的でもある。
とも述べています。
つまり、
――感覚が“感覚の痕跡”と照らし合わされることなく、ただ“感覚の模型”が関わることによってのみ意識が働く、ということはありえないが、“感覚の模型”が関わらなければ、“意識の働き”は本質を欠く――例えば、クオリアの体験が喪失する、もしくは、その体験は不完全なものとなる。
ということです。
もう少し日常的な述べ方に直せば、
――感覚は、記憶と照らし合わされるだけでは不十分なクオリアを呈し、想像で補われて初めて、十分なクオリアを呈する。
となります。
一般に、
――想像力の豊かな人は、感受性も鋭い。
と考えられていますが――
“意識の働き”において、想像がクオリアの精度ないし品質を保証しているのであれば――
想像力と感受性とに正の相関があるのは、当然のことといえます。
そのような意味で、
――想像
すなわち、
――感覚の模型
という概念は、“意識の働き”を考える上では、なかなかに大切なのです。