マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

感覚がクオリアを呈する条件

 ――感覚

 も、

 ――感覚の痕跡

 も、

 ――感覚の模型

 も、すべて“神経細胞によって伝達される信号”である――

 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 一方で――

 1月11日以降の『道草日記』で――

 僕は、

 ――感覚が“感覚の痕跡”と絶え間なく照らし合わされ続け、何らかの相関性が見出され続けることこそが、意識の働きである。

 と繰り返し述べています。

 

 このような“意識の働き”に対し――

 “感覚の模型”は、どのように関わっているのでしょうか。

 

 ……

 

 ……

 

 僕は、

 ――補助的に関わっているが、実は本質的にも関わっている。

 と考えています。

 

 つまり――

 “意識の働き”において、感覚と“感覚の痕跡”とが照らし合わされるときに、“感覚の模型”は、その照らし合わせを助ける役割を果たしていて――

 もし、その“助ける役割”が全く果たされなければ――

 心は、例えば、いわゆるクオリアを伴った感覚を十分には体験しえない――

 そういうことではないか、と――

 

 ……

 

 ……

 

 ここでいう「クオリア」とは――

 1月4日の『道草日記』で触れた「クオリア(qualia)」――「感覚質」という日本語訳があてられているラテン語の言葉――のことです。

 

 ――感覚の痕跡

 とは、「記憶」であり、

 ――感覚の模型

 とは、「想像」である、と――

 1月30日の『道草日記』で述べました。

 

 よって――

 以上に述べたことを、「記憶」や「想像」を使って述べ直すと、以下のようになります。

 ――感覚は、記憶と照らし合わされ、想像によって補われて初めて、十分なクオリアを呈する。