マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

2021-01-01から1ヶ月間の記事一覧

中大兄皇子は最期まで求心力を保っていたか

――大化の改新で有名な中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、政権の首班としての求心力を備えていて、その求心力は“クーデターを起こした者の責任感”あるいは“最期まで日本列島の人々と運命を共にする覚悟”に根差していたのではないか。 ということを、きの…

中大兄皇子の“責任感”あるいは“覚悟”

――大化の改新で有名な中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、白村江(はくすきのえ)の戦いの後の危機的な状況に接し、“権威と権力との緩やかな統合”を捨て、“権力と権威との癒合”に踏み切ったのではないか。 ということを、きのうの『道草日記』で述べまし…

中大兄皇子が天皇の位に就いた理由

――大化の改新で有名な中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、クーデターを起こした責任感から、あえて権力を一手に引き受けた、と考えられる。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 そんな中大兄皇子も―― クーデターを起こしてから20年余り後…

中大兄皇子の優れていた点

――大化の改新で有名な中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、“権威と権力との緩やかな統合”に成功をした。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 具体的には、 ――自ら権力を一手に引き受けた一方で、権威を手に入れることは拒んだ。 というこ…

“権威と権力との緩やかな統合”に成功をした政権――中大兄皇子の政権

明治維新の担い手たちは、西欧列強の外交圧力という危機に対し、 ――権威と権力との癒合 という過ちを犯した―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 日本史の理を考えたなら、 ――権威と権力との緩やかな統合 を試みるのがよかった、と―― …… …… …

日本史の理

――象徴天皇制は日本史の理(り)に適っている。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 …… …… ――日本史の理 という言葉を用いました。 おそらく―― このような語句は存在をしません。 僕が咄嗟に思い付いた新造の語句です。 意味は、 ――日本列島…

象徴天皇制は日本史の理に適っている

日本国憲法が掲げる象徴天皇制は―― 徳川幕府が完成形に導いた、 ――権威と権力との分離 を奇妙なくらい正確に受け継いでいるのではないか―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 日本国憲法については―― 様々な議論がありますね。 ――太平洋戦争…

徳川幕府が完成形に導いた“権威と権力との分離”

鎌倉末期の有力な武士であった足利尊氏が、同時代において最終的には敵対をした後醍醐天皇に対し、伝えたかったことは、 ――権力に権威が結びつくと、権力の過ちを誰も糺せなくなるので、権威と権力とは分かれているほうがよい。 ということではなかったか―― …

足利尊氏が後醍醐天皇に伝えたかったこと

――明治政府にとっての“足利尊氏”は、徳川慶喜であった。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 鎌倉末期から南北朝初期にかけて、わずか3年で建武政権が瓦解をしたのは―― おとといの『道草日記』で述べた通り―― 建武政権の首脳部が足利尊氏の処…

明治政府にとっての“足利尊氏”は誰であったか

――鎌倉末期に即位をした後醍醐天皇は、南北朝期が始まる前に早々と足利尊氏を将軍に任じ、彼に幕府を開かせていれば、後世、明治天皇と同じくらいに幅広く日本列島の人々から敬愛をされる天皇になっていたかもしれない。 ということを、きのうの『道草日記』…

建武政権が短期間で倒れた理由

――鎌倉末期に即位をした後醍醐(ごだいご)天皇は、天皇としての権威を巧みに活かすことによって、失っていた権力を強引に奪い返そうとした。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 後醍醐天皇の政権――建武(けんむ)政権――は、鎌倉末期から南…

建武政権の成立は“政体の復古”であった

――建武(けんむ)政権の後退性 について―― きのうの『道草日記』で述べました。 ――建武政権 というのは―― 鎌倉末期に即位をした天皇――後醍醐(ごだいご)天皇――が、鎌倉幕府の滅亡の後に打ち立てた政権です。 いわゆる、 ――建武の新政 と呼ばれる新たな諸政…

建武政権――明治政府の500年ほど前に誕生をしていた政権

――明治政府の先進性 は、 ――後退性を包(くる)んだ先進性 であった―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 要するに―― 明治政府の中核にあったのは、 ――後退性 であり―― ――先進性 は、ただ表層を覆っていたにすぎない―― ということです。 実…

明治政府の先進性――後退性を包んだ先進性

――明治政府には、いわゆる“五箇条の御誓文”に象徴をされるような、ある程度の先進性があった。 ということを、1月15日の『道草日記』で述べました。 明治政府に先進性があったことは誰にも否定できないでしょう。 が―― その先進性を額面通りに受けとるのは、…

ファシズムは昭和前期に西欧から持ち込まれたのではない

――明治政府は民主主義のことを多少は考えていた。 ということを、おとといの『道草日記』で述べました。 が、 ――民主主義の隣にファシズムがある。 との警句――きのうの『道草日記』で少し詳しく述べた警句――については―― 明治政府は全く把握をしていなかった…

民主主義の隣にファシズムがある理由

――民主主義の隣にファシズムがある。 との警句について―― きのうの『道草日記』で述べました。 ――ファシズム というのは―― ラテン語で「束」を意味する「fascis(ファスキス)」の複数形「fasces(ファスケース)」が語源になっているといわれています。 こ…

明治政府は民主主義を考えていたか

――明治政府は文民統制のことなど考えもしなかったのではないか。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 では、 ――民主主義 は、どうであったでしょうか。 ここでいう、 ――民主主義 とは、 ――国家の主権が民衆にあることを認め、民衆の代表が集…

明治政府は文民統制など考えもしなかった

――明治政府の失敗を“文民統制”の視点で考えようとすると、頭が混乱をする。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 ありがちな混乱は、 ――いわゆる戦前の日本は、文民統制が徹底をされていなかったにも関わらず、どういうわけか、第一次世界大戦…

明治政府の失敗を“文民統制”の視点で考えると……

近代以降―― 軍事を握り続けるのに必要な知識や理解が膨大になったことから、 ――政治と軍事とに関わる矛盾 を隠すために、 ――軍事の文民統制 という思想が必要とされ始めた―― ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 ――軍事の文民統制 は、 ――軍…

“軍事の文民統制”の原型

――政治と軍事とに関わる矛盾 について、おとといの『道草日記』で述べました。 簡単に述べなおすと―― ――軍事は外交の一部であり、外交は政治の一部である。 との社会的原理がある一方で、 ――軍事を握った者が(外交を含む)政治を握ってきた。 との歴史的経…

明治政府が軍人に選挙権を与えなかった理由

――明治政府が軍人に選挙権を与えなかった理由がよくわからない。 ということを―― おとといの『道草日記』で述べました。 ――軍人による政治への介入を防ぐ。 という目的以外に、理由は見当たらない、と―― …… …… その後、さらに調べていくうちに―― もう一つだ…

明治政府は“軍事と政治とに関わる矛盾”に気を配れなかった

明治政府は、 ――軍事を握った者が政治を握ってきた。 という歴史的経緯を重くみなかったのではないか―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 ――軍事は外交の一部であり、外交は政治の一部である。 という社会的原理とは別に、 ――軍事を握った…

明治政府が十分には理解をしていなかったかもしれない歴史的経緯

――明治政府は軍人に選挙権を与えなかったために、結果として、軍人による政治への不当な介入を許した。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 では―― なぜ明治政府は軍人に選挙権を与えなかったのか―― …… …… これが―― よくわからないのですね…

明治政府は軍人に選挙権を与えなかった

――明治政府は進歩的であろうとしすぎたために、その政体――政治の体制――にが孕んでいた“軍事の裁量権の独立”を取り除き損ねるという初歩的な失敗をした。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 ――軍事の裁量権の独立 を許した要因の1つに、 ――…

明治政府は進歩的であろうとしすぎた

――大政奉還の頃、徳川慶喜に政権を任せていたら、後年の明治政府に生じた“軍事の裁量権の独立”は生じなかった可能性がある。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 結局のところ―― 僕が12月31日の『道草日記』でいい始めた、 ――明治政府の異様…

徳川慶喜に政権を任せていたら――再考

――明治政府の異様 について述べています。 この“異様”を避けるには、 ――ひとまず徳川慶喜に政権を任せればよかった。 ということを、1月2日の『道草日記』で述べました。 実際には―― それは不可能であったろうことを、翌日の『道草日記』で述べました。 以上…

徳川慶喜は鳥羽・伏見の戦いの前後で何を考えていたのか

――徳川慶喜のことを、“近代日本の最初の政治家”ないし“文科・理科双方に通じた教養人”とみるなら、鳥羽・伏見の戦いの前後の動向も、それほど不可解ではなくなってくる。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 このように述べると―― 徳川慶喜…

徳川慶喜の決断に感じられる矜持

――徳川慶喜には人望が不足をしていたので、政権が任されることはなかった。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 ――思いやりが苦手な人であった。 との見方もされています。 要するに、 ――集団指導体制 の一角として存在感を発することはでき…

徳川慶喜に政権が任されなかった理由

――明治政府の発足当初の異様を避けるには、ひとまず徳川慶喜に政権を任せればよかった。 との結果論について、きのうの『道草日記』で述べました。 ここでの主語――「異様を避ける」や「政権を任せる」の主語――は、 ――日本人 もしくは、 ――日本列島の人々 で…

明治政府の異様を避けるには、どうすれば良かったか

――明治政府は発足当初から異様であった。 ということを、おとといの『道草日記』から繰り返し述べています。 この、 ――異様 を避けるには、どうすれば良かったか―― …… …… 結果論は明らかです。 ――ひとまず徳川慶喜に政権を任せればよかった。 です。 大政奉…