ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
鎌倉末期から南北朝初期にかけて、わずか3年で建武政権が瓦解をしたのは――
おとといの『道草日記』で述べた通り――
明治政府の首脳部は徳川慶喜の処遇を間違えませんでした。
明治政府は徳川慶喜と敵対をしてしまうことがありませんでした。
実は――
足利尊氏も後醍醐天皇に対し、終生、敬愛の情を抱き続けていたといわれています。
足利尊氏個人は後醍醐天皇個人に対し、強い敵意は抱いていなかったようなのですね。
が――
後醍醐天皇の方は、そうではありませんでした――後醍醐天皇個人はともかく、少なくとも建武政権の首脳部は、足利尊氏に強い敵意を抱いてしまったようです。
そんな行き違いが――
なぜ生まれたのか――
原因については、様々なことがいわれていますが――
今のところ、
――足利尊氏は実に鷹揚で大雑把な性格であり、かつ、とくに政治的な手腕に長けていたわけでもなかったので、ときに不用意な行動をとってしまい、そのために建武政権の首脳部が猜疑心を滾(たぎ)らせた、というのが真相ではなかったか。
と考えられているようです。
その真相に、どこまで迫れていたのかは、ともかくとして――
明治政府の首脳部は、徳川慶喜に対し、建武政権の首脳部が足利尊氏に滾らせたような猜疑心を滾らせることは、ありませんでした。
なぜ、そんなことが可能であったのか――
……
……
僕は、
――建武政権の失敗を冷静に捉えていたからである。
と考えています。
明治政府の首脳部は、王政復古の大号令を下す頃に、建武政権のことをかなり詳しく調べたのではないでしょうか。
その結論が、
ではなかったか、と――
……
……
この熟慮は――
明治政府が、建武政権のような短命で終わらなかったことに関しては、まことに功を奏しましたが――
後世、統帥権干犯問題に火がつき、そのことを皮切りに無責任な政体――政治の体制――が生まれ、その結果、太平洋戦争の挫折に至ったことに関しては、まことに無力でした。
明治政府が統帥権干犯問題に火をつけ、ひいては無責任な政体を生んだ遠因は、権威と権力とを安易に結びつけてしまったことです。
この国でいうところの「権威」は、天皇や天皇の周辺が脈々と保ってきた摩訶不思議な権威であり――
権力によって奪われたり損なわれたりすることが殆(ほとん)どなかった稀有の事象なのですね。
そんな権威が権力と結びつくと――
誰もが権力の過ちを糺さなくなる――あるいは、糺せなくなる――のです。
それは危険なことです。
南北朝初期――
足利尊氏が、おそらくは敬愛をしてやまなかった後醍醐天皇に対し、弓を引いてでも伝えたかったことは――
それに違いないのです。
――権力の行使は、我ら下々の者にお任せ下さい。権威の保全こそが真のお勤めです。
権威の持ち主が権力の行使で過ちを犯せば、理由はどうであれ、必ずや権威は失われるのです。
そして――
権力の行使に過ちは不可避です――しょせんは人がやることだからです。