2020-12-01から1ヶ月間の記事一覧
――明治政府は発足前から集団指導体制であった。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 ――江戸攻略の時点で、すでに集団指導体制であった。 と―― …… …… このように述べると、 ――集団指導体制は悪い。 と主張をしているように思われるかもしれま…
――明治政府は発足当初から集団指導体制であったので、政権の所在の明確化に失敗をした。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 裏を返せば―― 発足当初の明治政府が集団指導体制でなければ――つまり、誰か絶対的な指導者が1人いて、その人の監督…
――明治政府は政権の所在の明確化に失敗をした。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 なぜ明治政府は政権の所在を明確にできなかったのでしょうか。 …… …… それは―― 明治政府が発足当初から集団指導体制であったからと考えられます。 明治政府…
――明治政府は、“政権交代の常態化の制度”の確立に失敗をした。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 この、 ――政権交代の常態化の制度 というのを、やや詳しくいい直せば、 ――政権を担う人材の交代が常態的に保証をされている制度 となる、と…
――“国家百年の計”の教育 について、 ――国家の安全保障 の観点を抜きにして論じたところで、意味はない―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 ――国家の安全保障 というのは―― 極論をすれば、 ――国家の存亡 が問われる状況で、 ――どんな人材に…
――明治政府は“国家百年の計”の教育を誤った。 ということを―― 12月19日以降の『道草日記』で繰り返し述べています。 なぜ明治政府は“国家百年の計”の教育を誤ってしまったのか―― …… …… おそらく、 ――国民教育 や、 ――学術教育 の充実が、 ――“国家百年の計”の…
――国民教育 や、 ――学術教育 と、 ――“国家百年の計”の教育 とでは性質が異なる―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 ――国民教育 や、 ――学術教育 は、いわば、 ――国家の福利厚生 のようなものといってよいのですが―― ――“国家百年の計”の教育…
――明治政府は“国家百年の計”の教育を誤った。 ということを―― 12月19日以降の『道草日記』で繰り返し述べています。 こう述べると、 ――そんなことはない。 との反論が寄せられるかもしれません。 ――日本列島に近代国家の礎となりうる国民教育をもたらしたの…
――統帥権干犯問題 が日本史の表舞台に飛び出してきた昭和5年頃、海軍の上層部は明治政府の下で育った世代で占められていた―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 実は―― これより一世代分ほど前――明治後期の頃――にも、統帥権干犯問題は厳然と…
――明治政府は“国家百年の計”の教育を誤った。 ということを―― 12月19日の『道草日記』で述べました。 その結果―― いわゆる、 ――統帥権干犯問題 が生じ―― 政権が迷走を始めた、と―― …… …… もちろん、 ――統帥権干犯問題 が全てではありませんが―― なかなかに象…
――徳川幕府は“国家百年の計”の教育を誤らなかった。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 では―― 徳川幕府による教育の施策の何がよかったのでしょうか。 …… …… この問いに答えるのは、とても難しいのですが―― それでも―― 思い切って答えるな…
いわゆる、 ――国家百年の計 の本質である教育の施策について、 ――明治政府は誤ったが、徳川幕府は誤らなかった。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 こう述べると―― 種々の異論が出てくるでしょう。 もちろん、 ――明治政府は誤ったが、徳川…
――国家百年の計 の「百年」は、 ――人の寿命 である―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 そして―― そもそも、 ――国家百年の計 というのは、 ――教育のこと に他ならず、 ――自分の生涯が終わる頃のことを考えるくらいなら、目の前の教育をきち…
17世紀序盤の日本列島に生じた徳川幕府は―― キリスト教の禁止と鎖国の徹底に踏み切ったことで、その後、日本列島の人々に300年近い泰平の世をもたらしました。 これは、徳川幕府が、 ――国家百年の計 を誤らなかったから―― と、いえるでしょう。 一方―― 19世…
――16世紀終盤の日本列島の豊臣政権は、皇朝・明のような大陸国家を目指すのではなく、ポルトガルやスペインのような本格的な海洋国家を目指すのがよかった。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 豊臣政権による朝鮮出兵は、その目的が明の都…
――16世紀終盤の日本列島に生じた豊臣政権は、アヘン戦争のような惨禍を東アジアに招かないようにするために、朝鮮出兵を試みたと考えられるが、それは、まったく功を奏しなかった。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 では―― 豊臣政権は、ど…
19世紀以降の東アジアにおいて、アヘン戦争も太平洋戦争も起きないようにするには、どうすればよかったか―― との問いへの答えは、 ――アヘン戦争が起こらないようにすればよかった。 である、ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 正確には、 ―…
中国大陸の人々にとっての「アヘン戦争」という名の挫折と―― 日本列島の人々にとっての「太平洋戦争」という名の挫折と―― それらの間に定量的な違いはあっても定性的な違いはない、ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 簡単にいえば―― 西欧で…
中国大陸の人々が、18世紀から19世紀にかけて、アヘンの売り込みという敵対的進出に曝された結果、19世紀中盤にアヘン戦争という挫折を経験し―― 日本列島の人々が、16世紀から17世紀にかけて、キリスト教の流布という敵対的進出に曝された結果、20世紀中盤に…
――“アヘン問題への危機感”の本態は、“西欧の敵対性”に一早く気づいて備えることができなかったことの認識である。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 この認識が、アヘン戦争に敗れた当の中国大陸では十分に広まらずに―― その後の中国近現代…
――アヘン戦争のときに、林(りん)則徐(そくじょ)が抱いたアヘン問題への危機感は、東アジアの全域はおろか、中国の全土へ広まることさえ、なかった。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 ここでいう、 ――アヘン問題への危機感 とは何か――…
――アヘン戦争のときに、林(りん)則徐(そくじょ)が抱いていたであろう決死の覚悟の背景には、冷静な計算が隠されていたのでは? ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 その計算とは、 ――アヘン問題に取り組む皇朝・清の欽差(きんさ)大臣――…
――アヘン戦争のときに、林(りん)則徐(そくじょ)は、文官でありながら、任地・広東における海軍の指揮権を手にしていた。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 文官ですから―― もちろん、林則徐に軍の実際的な統率能力はなかったでしょう。…
――アヘン戦争のときに、道光(どうこう)帝は林(りん)則徐(そくじょ)に“片思い”をしていた。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 そして―― その“片思い”は―― もし、林則徐が、道光帝に、 ――アヘンの完全根絶に踏み切ることで、外国人たち…
――アヘン戦争の際に、林(りん)則徐(そくじょ)と道光(どうこう)帝とが出会い、思いがけず、気が合ってしまったことは、中国近現代史にとって、最初で最大の不幸ではなかったか。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 が―― 実は、 ――気が…
アヘン戦争について、 ――林(りん)則徐(そくじょ)と道光(どうこう)帝とは、思いがけず、気が合ったのではないか。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 …… …… ――アヘン戦争の発火点は、どこであったか。 ということについて、少し考えて…
アヘン戦争を語る上で必須の人物である林(りん)則徐(そくじょ)と道光(どこう)帝――この2人は、“感情の分布図”において、どちらも“憂・勇”領域に配される―― ということを―― きのう・おとといの『道草日記』で述べました。 この2人は、おそらく―― 思い…
――アヘン戦争の英雄 と称えられる林(りん)則徐(そくじょ)は、 ――感情の分布図 において、 ――“憂・勇”領域 に配される―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 一方―― 11月27日の『道草日記』で述べたように―― アヘン戦争を語る上で必須の人…
――感情の分布図 という模式図を、9月24日の『道草日記』で示しました。 横に情動軸、 ←怯(きょう)―――勇→ をとり―― 縦に気分軸、 ←憂―――喜→ をとって―― 第1象限として“勇・喜”領域を―― 第2象限として”喜・怯”領域を―― 第3象限として“怯・憂”領域を―― 第…
――精査・熟慮の上で決断を行うという資質が、林(りん)則徐(そくじょ)にはあったが、道光(どうこう)帝にはなかった。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 誤解のないようにいっておきますと―― このことは、 ――道光帝が暗君であった。 と…