アヘン戦争を語る上で必須の人物である林(りん)則徐(そくじょ)と道光(どこう)帝――この2人は、“感情の分布図”において、どちらも“憂・勇”領域に配される――
ということを――
きのう・おとといの『道草日記』で述べました。
この2人は、おそらく――
思いがけず、気が合ったのですね。
林則徐が道光帝によって、いわゆるアヘン問題の特命全権大臣――欽差(きんさ)大臣――に任じられた際に――
道光帝は、林則徐を宮中に呼び出し、誰もまじえずに小一時間ほど、じっくりと話し合ったといいます。
そのような話し合いが3日ほど続けて持たれ――
やがて、林則徐は宮城(きゅうじょう)の敷地内を馬に乗って進むことが許されます。
これは、当時としては、この上ない栄誉でした。
そのような栄誉に浴させると決めたのは――
道光帝が林則徐の能力だけでなく、性格も気に入ったからでしょう。
ちなみに――
林則徐は、武官でなく文官であったので、馬に乗るのは不得意でした。
宮城の敷地内を馬に乗って進むことが許されても、かえって困ったことになったようで――
おっかなびっくりの騎乗であったと思われます。
その様子をきいて気の毒に思ったのか――
道光帝は馬でなく輿(こし)に乗るように命じました。
これは、臣下にとっては、異例のことであったといいます。
輿に乗る方が馬に乗るよりも頭が高くなるのですね――肩に担がれた輿の上に椅子を載せ、その椅子に座って進むからです。
それくらいに――
道光帝は、林則徐をいたく気に入り、深く信じ、心から頼ったようです。
人の気質には一般的な傾向がある、ということを――
11月20日の『道草日記』で述べました。
すなわち、
――勇みやすい性格なら喜気が強く、怯みやすい性格なら“憂気”が強い。
という傾向です。
要するに、“憂・勇”領域に配される人物は、人の気質の一般的な傾向から逸脱をしているので、珍しいのです。
道光帝も林則徐も、その意味で、珍しい人物であったのです。
そんな2人が、アヘン問題の難局において、劇的に出会った――
道光帝の方が、林則徐を一方的に気に入り、信じ、頼ったのではなく――
林則徐の方も、道光帝を本気で敬うと決め、信じ、頼ったに違いないのです。
2人とも自分の中に一般的ではない気質を感じとっていて――
その気質を互いに相手の中に感じとったがゆえに――
2人は固く信じ、頼り合う関係になったと考えられます。