アヘン戦争について、
――林(りん)則徐(そくじょ)と道光(どうこう)帝とは、思いがけず、気が合ったのではないか。
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
……
……
――アヘン戦争の発火点は、どこであったか。
ということについて、少し考えてみます。
ふつうに考えれば――
それは、皇朝・清が、
――アヘンの完全根絶
に踏み切った時点です。
具体的には――
林則徐が、アヘン問題の特命全権大臣――欽差(きんさ)大臣――に任じられ、任地へ赴き、イギリス商人らが蓄えていたアヘンを全て差し出させ、その廃棄を実行に移しえた時点――
です。
11月27日の『道草日記』で述べたように――
全てのアヘンの完全な廃棄は、政治課題としては大変に難しく、おそらくは、林則徐でなければ、実行は無理であったでしょう。
裏を返すと――
全てのアヘンが完全に廃棄をされる前の時点で、道光帝が林則徐の任を解いていたならば――
アヘン戦争は起こらなかった可能性があります。
実際には――
その時点の後で任を解いていたので、アヘン戦争は起こり――
このことが、その後の中国近現代史に――ひいては、東アジア近現代史に――暗い陰を落としました。
とはいえ――
道光帝にとって――
全てのアヘンが完全に廃棄をされる前の時点で林則徐の任を解くことは、思いもよらなかったでしょう。
そもそも――
道光帝は、全てのアヘンの完全な廃棄を実行に移すために、林則徐をとくに用いたわけです。
さらにいえば――
もし、僕が考えるように、本当に道光帝が林則徐の人となりの中に自分と相通じる気質を感じとっていたのだとしたら――
なおのこと、罷免はありえません。
たとえ、宮廷の側近らがこぞって、
――林則徐を外して下さい。
と懇願をしても――
聞く耳をもたなかったでしょう。
――情
に裏打ちをされた、
――理
というものは、なかなか覆せません。
道光帝自身は、おそらく、
――理
によって林則徐を用いたつもりであったでしょうが――
その“理”は、
――情
によって堅牢に下支えをされていた可能性が高い、と――
僕は考えています。
ということは――
アヘン戦争の真の発火点は、皇朝がアヘンの完全根絶に踏み切る以前にあったとみるほうがよいでしょう。
では――
それは、いつか――
……
……
もちろん――
それは、道光帝が林則徐に出会った時点です。
もし、そうならば――
この2人が出会い、思いがけず、気が合ってしまったことこそが、中国近現代史の最初にして最大の不幸であった――
という話になります。
因果なことです。