マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

嘉吉の変や本能寺の変について成り立つ2本の図式

 室町期に起こった、

 ――嘉吉(かきつ)の変

 は、収束までに約3か月を要したので、争いの開放性が高まり、

 ――乱

 ともみなされたが――

 織豊期に起こった、

 ――本能寺の変

 は、収束までに約10日しか要さなかったので、争いの閉鎖性が高まり、

 ――乱

 とはみなされなかったのではないか――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 それは、その通りで――

 今になって、改めるところはないのですが――

 

 どうしても気になるのは――

 本能寺の変の後で大勢の将兵が死んでいる、という事実です。

 

 たしかに、本能寺の変は、閉鎖性の高い争いではあったと思いますが――

 その後に起こった明智光秀羽柴秀吉――後の豊臣秀吉――との戦いは、両軍合わせて3万とも6万ともいわれる数の将兵が参加をした大規模な戦いでしたから――

 やはり、

 ――変

 と呼ぶには違和感が強すぎるのですよね。

 

 つまり――

 これは、

 ――乱

 であろう、と――

 

 きのうの『道草日記』で述べたように、

 ――本能寺の変

 は、本来は、

 ――天正(てんしょう)の乱

 もしくは、

 ――明智光秀の乱

 と呼ぶのが筋であろう、と――

 

 そう思います。

 

 ただし、

 ――天正の乱

 については――

 ――天正壬午(じんご)の乱

 という同じ織豊期に起こった全く別の乱がありますので――

 これを用いるのは不適当とも思います。

 

 しっくりくるのは、

 ――明智光秀の乱

 でして――

 実際に――

 この呼称を推している研究者もいるようです。

 

 この呼称を用いるならば――

 いわゆる、

 ――本能寺の変

 については――

 以下の図式が成り立つのですね。

 

 すなわち、

 

  明智光秀の乱

  = 本能寺の変山崎の戦い

 

 という図式です。

 

 ――山崎の戦い

 というのは――

 本能寺の変の後に起こった明智光秀羽柴秀吉との戦いです。

 

 一方――

 いわゆる、

 ――嘉吉の変

 については――

 以下の図式が成り立ちます。

 

 すなわち、

 

  嘉吉の乱

  = 嘉吉の変 + 播磨(はりま)の戦い

 

 という図式です。

 

 ――播磨の戦い

 というのは――

 赤松満祐らが自分たちの領国――播磨――に戻った後に起こった赤松満祐らと幕府の軍勢との戦いです。

 

 ――山崎の戦い

 という呼称は存在をしますが、

 ――播磨の戦い

 という呼称は存在をしません――僕が今、便宜上こしらえました。

 

 まあ――

 いろいろと問題はありますが――(笑

 

 これら2本の図式を念頭に置けば、

 ――嘉吉の変

 が、

 ――嘉吉の乱

 とも呼ばれていて、かつ、

 ――本能寺の変

 が、

 ――本能寺の乱

 とは呼ばれていない理由が、直観的に、よくわかる気がします。

嘉吉の変は約3か月、本能寺の変は約10日

 室町期に起こった、

 ――嘉吉(かきつ)の変

 と――

 織豊期に起こった、

 ――本能寺の変

 とは、互いに似ているにも関わらず――

 ――嘉吉の変

 が、しばしば、

 ――嘉吉の乱

 と呼ばれるのに対して、

 ――本能寺の変

 は、決して、

 ――本能寺の乱

 と呼ばれることはない――

 ということを、きのうの『道草日記』で触れました。

 

 その理由は何か――

 

 ……

 

 ……

 

 僕は、

 (事件が収束するまでの期間の長さだろう)

 と考えています。

 

 嘉吉の変では――

 将軍・足利義教(よしのり)が、京の二条西洞院(にしのとういん)で赤松満祐(みつすけ)らに殺害をされてから――

 赤松満祐が、自分たちの領国の播磨(はりま)――現在の兵庫県の一部――で幕府の軍勢と戦って敗れ、自殺に追い込まれるまで――

 約3か月間でした。

 

 一方――

 本能寺の変では――

 織田信長が、京の本能寺で明智光秀の軍勢に襲われ、自殺に追い込まれてから――

 明智光秀が、山城――現在の京都府――の北西部にある山崎というところで羽柴秀吉――後の豊臣秀吉――の軍勢と戦って敗れ、命を落とすまで――

 約10日間でした。

 

 嘉吉の変は、収束まで約3か月もかかっていますから――

 世間は、ある程度は事態の推移を追えたはずです。

 

 つまり、

 ――赤松満祐が将軍を殺した?

 から始まり、

 ――その後、播磨に立て籠って幕府の兵と戦うだと?

 へ移り、

 ――結局は敗れて自害をしたか。

 で終わった――

 

 一方――

 

 本能寺の変は、収束まで約10日しかかかっていませんから――

 世間は――畿内の人々を除けば――ほとんど事態の推移を追えなかったはずです。

 

 ――なに? 織田信長明智光秀に殺されたが、その明智光秀羽柴秀吉と戦って、すでに敗れているだと? いったい、どうなっておるのだ?

 という感じです。

 

 つまり――

 嘉吉の変は、当初は争いの閉鎖性が高かったものの、その後は低まり、むしろ、争いの開放性が高まっていったが――

 本能寺の変は、当初から争いの閉鎖性が高く、争いの開放性は低いままであった――

 と考えることができます。

 

 よって――

 もし、赤松満祐が将軍・足利義教を騙し討ちにした後、10日くらいのうちに幕府の軍勢と戦って敗れ、命を落としていたら、

 ――嘉吉の変

 が、

 ――嘉吉の乱

 と呼ばれることはなかったでしょう。

 

 また――

 もし、明智光秀織田信長を本能寺に襲って自殺に追い込んだ後、羽柴秀吉と戦って敗れることなく、3か月くらいは持ちこたえていたら――

 さすがに、

 ――本能寺の変

 が、

 ――本能寺の乱

 と呼ばれることはなかったでしょうが――

 当時の元号をとるなどして、

 ――天正(てんしょう)の乱

 とは呼ばれていたかもしれません。

 

 あるいは、

 ――明智光秀の乱

 かもしれませんね。

 

 いずれにせよ――

 いわゆる、

 ――本能寺の変

 は、

 ――変

 ではなく、

 ――乱

 として認識をされていたのではないか――

 

 そう思います。

本能寺の変――日本史上、最も有名な変

 ――変

 と、

 ――乱

 との違いについて述べています。

 

 ――日本史上、最も有名な変は?

 と問われれば――

 多くの人が、迷わず、

 ――本能寺の変

 と答えるでしょう。

 

 先ごろ放映をされたNHK大河ドラマでも描かれていたそうですから――

 この時期に、

 ――変

 や、

 ――乱

 について語るなら、

 ――本能寺の変

 は外せませんね。

 

 ……

 

 ……

 

 あらためて述べるまでもなく――

 

 ――本能寺の変

 とは――

 織豊期、天下統一を目前にしていた織田信長が、京の本能寺に宿泊をしていた際に――

 有力な家臣の一人・明智光秀の軍勢に襲われ、命を落とした事件です。

 

 きのうまでの『道草日記』で述べた、

 ――嘉吉(かきつ)の変

 とは違って、

 ――本能寺の変

 は、

 ――本能寺の乱

 と呼ばれることがありません。

 

 が――

 これら2つの事件――

 実は、起こったことだけを比べると、わりと似ているのです。

 

 本能寺の変を起こした明智光秀は、織田信長の有力な家臣で――

 当初は、織田信長と良好な関係を築いていたと考えられています。

 

 嘉吉の変を起こした赤松満祐(みつすけ)は、室町幕府の有力な守護大名で――

 当初は、将軍・足利義教(よしのり)と良好な関係を築いていたと考えられています。

 

 また――

 織田信長足利義教も、わずかな数の供しか従えていなかったところを襲われ、命を落としました。

 

 その後――

 明智光秀も赤松満祐も、一度は政権の獲得を目指しますが、戦(いくさ)に敗れ、命を落としています。

 

 ちなみに――

 事件の起こった場所は、どちらも京の市街地です。

 

 これだけ類似点が挙げられるのに――

 なぜ、

 ――嘉吉の変

 は、

 ――嘉吉の乱

 とも呼ばれ、

 ――本能寺の変

 は、

 ――本能寺の乱

 と呼ばれることがないのか――

 

 ……

 

 ……

 

 すぐに思い当たるのは――

 

 ――嘉吉の変

 の「嘉吉」は、事件が起こったときの元号であり、

 ――本能寺の変

 の「本能寺」は、事件が起こったところの呼称である――

 ということです。

 

 これだけ性質の異なる言葉――「嘉吉」と「本能寺」と――が用いられていれば――

 片方が、

 ――嘉吉の乱

 とも呼ばれ――

 もう片方が、

 ――本能寺の乱

 とは呼ばれなくても――

 そんなに不思議ではありません。

 

 が――

 以上のことは、本質的な理由とはいえないでしょう。

 

 なぜか、というと――

 

 ……

 

 ……

 

 まずは――

 以下のことを確認しておきたいと思います。

 

 ――嘉吉の変

 が起こったのは、京の二条西洞院(にしのとういん)にあった赤松満祐の屋敷ですから、

 ――嘉吉の変

 を、

 ――本能寺の変

 に倣って呼べば、

 ――二条西洞院の変

 となります。

 

 また、

 ――本能寺の変

 が起こったのは、「天正(てんしょう)」という元号が用いられていたときですから、

 ――本能寺の変

 を、

 ――嘉吉の変

 に倣って呼べば、

 ――天正の変

 となります。

 

 が、

 ――二条西洞院の変

 という呼び方も、

 ――天正の変

 という呼び方も――

 まず用いられることはありません。

 

 つまり、

 ――嘉吉の変

 が、「嘉吉の乱」と呼ばれることも多いのに、

 ――本能寺の変

 が、「本能寺の乱」と呼ばれることがない理由は――

 「嘉吉」という言葉が事件の起こったときを表す言葉であり、「本能寺」という言葉が事件の起こったところを表す言葉である、ということとは、

 (基本的には関係はなさそうだ)

 と考えられます。

 

 では――

 

 何が関係をしているのか、というと――

 

 ……

 

 ……

 

 つづきは、あすの『道草日記』で――

嘉吉の変を「変」とみなすのがよい理由

 室町期に起こった嘉吉(かきつ)の変が、しばしば、

 ――嘉吉の乱

 と呼ばれる理由について――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 簡単に述べ直すと――

 将軍・足利義教(よしのり)が、京にあった赤松満祐(みつすけ)らの屋敷で騙し討ちにされたところまでは、あきらかに、

 ――変

 と呼ぶのがよいのですが――

 その後、赤松満祐らが自国の領土に戻って幕府に反抗をした顛末を重くみれば、

 ――乱

 と呼ぶのがよいのです。

 

 このように――

 嘉吉の変を、

 ――乱

 と呼ぶか――

 それとも、

 ――変

 と呼ぶかについては――

 この政権をめぐる争いの本態をどこに見出すかに、かかってきます。

 

 将軍暗殺前の過程に見出すのなら、

 ――嘉吉の変

 ですし――

 将軍暗殺後の過程に見出すのなら、

 ――嘉吉の乱

 です。

 

 ……

 

 ……

 

 僕は、

 ――嘉吉の変

 がよいと思っています。

 

 つまり――

 この政権をめぐる争いは、将軍暗殺前の過程に見出すのがよい――

 ということです。

 

 きのうの『道草日記』でも述べた通り――

 赤松満祐らは、当初、将軍を騙し討ちにした後のことは、ほとんど何も考えていなかったようです。

 

 将軍を騙し討ちにすれば――

 すぐにでも幕府の軍勢が押し寄せて来て、屋敷は囲まれると、考えていたようです。

 

 つまり――

 この騙し討ちは、本来は集団自殺に近い行為であったとみなせるのです。

 

 自分たちの領国が将軍によって奪われると考えた赤松満祐らが、

 ――それならば、将軍を道連れに自殺をしてやる!

 と自暴自棄になった結果――

 騙し討ちに至ったとみなせるのです。

 

 よって――

 政権をめぐる争いとしては、きわめて閉鎖性が高かったと考えられます。

 

 嘉吉の変は、一言でいえば、私憤が極まって起こっています。

 

 根底にあったのが、

 ――私憤

 ですから――

 他の守護大名たちは、なぜ赤松満祐らが将軍暗殺という大それた行為に出たのかが、すぐにはわかりませんでした。

 

 ――きっと他の守護大名たちの多くが赤松満祐らと内通をしていて、幕府の転覆を図っているに違いない。

 と勘違いをした者が多かったと伝わります。

 

 将軍・足利義教の強権的な政治手法が、あまりにも酷かったために――

 赤松満祐らの暴挙は、多くの同時代人の目には、

 ――公憤

 に基づく決死の反抗と映ったのです。

 

 が――

 その決死の反抗をもたらしたのは、公憤でも義憤でもなく、ただの私憤でした。

 

 将軍を騙し討ちにし、私憤を晴らした後は――

 赤松満祐らの行動から果断さが薄れます。

 

 全国の有力な守護大名らの心を動かしうる効果的な多数派工作に勤しむ必要があったのに――

 それをしなかった――

 

 ――あんな酷い将軍を殺してやったのだから、みんな、味方についてくれるだろう。

 と、甘く考たようです。

 

 あるいは、

 ――卑劣な手段を使った以上、多数派工作を必死でやらなければ、誰も味方についてくれない。

 と、厳しく考えることが、できなかった――

 

 (そもそも、赤松満祐には政権をめぐる争いに加われるような資質が初めからなかったのではないか)

 と、僕は感じています。

 

 赤松満祐は、生来、傲岸不遜な性格であった、と――

 いわれます。

 

 また――

 強権的な将軍・足利義教と、当初は良好な関係を築いていた、とも――

 

 (そんな男が、公憤なり義憤なりを抱くわけがない)

 そう思います。

「嘉吉の乱」の「乱」たる理由

 室町期に起こった嘉吉(かきつ)の変は、むしろ、

 ――嘉吉の乱

 と呼ばれることのほうが多い――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 将軍・足利義教(よしのり)が守護大名・赤松満祐(みつすけ)の屋敷で騙し討ちに遭った事件です。

 閉鎖性の高い争いですから、ふつうに考えれば、

 ――乱

 と呼ばれる余地はありません。

 ――変

 です。

 

 が――

 実際には、

 ――乱

 と呼ばれることのほうが多いのですね。

 

 その理由は――

 将軍暗殺後の顛末によります。

 

 当初、赤松満祐らは、将軍を騙し討ちにしたのであるから――

 すぐにでも幕府の軍勢が押し寄せて来て、屋敷は囲まれると、考えていたようです。

 

 そうなれば――

 潔く屋敷に火を放ち、自ら命を絶つつもりでいた――

 

 が――

 夜になっても幕府の軍勢は押し寄せません。

 

 それどころではなかったのです。

 

 将軍・足利義教の強権的な政治手法は、幕府を完全な独裁政権に仕立てていました。

 唯一絶対の独裁者が殺されたことで、幕府は組織としての体を失っていたのです。

 

 幕府の軍勢が押し寄せて来ないことを確かめて――

 赤松満祐らは自分たちの領国――現在の兵庫県岡山県――に戻って本格的に幕府に反抗をすると決めました。

 

 将軍・足利義教を騙し討ちにしたのは、自国の領土にあった屋敷においてではなく、京にあった自分たちの屋敷においてでした。

 赤松氏は室町幕府の有力な守護大名でしたが、さすがに自国の領土に将軍を招けるほどの権勢はありません。

 当時、幕府の本拠地は京にあり、将軍・足利義教も京に住んでいました。

 それゆえに、赤松満祐は将軍を自分たちの屋敷に招いて騙し殺すことができたのです。

 

 赤松満祐らは、京にあった自分たちの屋敷に火をかけ、自国の領土に向かいました。

 道中、足利義教の首を槍に刺し、高々と掲げていたといわれます。

 強権的な政治手法を採った将軍・足利義教は、概して評判がよくありませんでした。

 ――そんな悪名高き将軍を取り除いた自分たちにこそ正義はある。

 と世間にアピールをしたかったのだと考えられます。

 

 この辺から、

 ――嘉吉の乱

 の「乱」たる理由が徐々に目立ち始めてくるのです。

 

 つまり――

 赤松満祐らは、当初は、将軍を騙し討ちにし、その後で自ら命を絶つつもりでいた――

 

 が――

 幕府は、軍勢を差し向けてこない――

 

 ――ならば、ひとつ自分たちで幕府を作り直してやろう。

 そのように考えたようです。

 

 ここまできたら――

 争いの開放性が一気に高まります。

 

 足利一門の人物を自国の領土に連れてきて、傀儡の将軍とし――

 やがて全国の守護大名らが自分たちに味方をするのを待つことにしたようです。

 

 が――

 いくら悪名高き将軍とはいえ、騙し討ちの犯人に共感を示すような者が、そんなに多くいるはずはありません。

 

 赤松満祐らは、思うように味方を集めることができず――

 態勢を立て直して大規模な軍勢を差し向けてきた幕府によって、あっさり滅ぼされてしまいました。

 

 以上が――

 嘉吉の変の将軍暗殺後の顛末です。

 

 この変が、しばしば、

 ――乱

 と呼ばれる理由が、よくわかります。

嘉吉の変が「嘉吉の乱」とも呼ばれる理由

 ――「変」か「乱」かの違いは、政権をめぐる争いの閉鎖性ないし開放性に依っている。

 ということを述べています。

 

 きょうは、

 ――嘉吉(かきつ)の変

 について述べましょう。

 

 ――嘉吉の変

 は、室町期に起こりました。

 ときの幕府の将軍・足利義教(よしのり)が、守護大名・赤松満祐(みつすけ)に殺害をされました。

 足利義教は、赤松満祐の屋敷に招かれ、宴席に着いていたところを、赤松満祐の家臣らによって斬り殺されたと伝わります。

 足利義教は40代後半、赤松満祐は60代でした。

 

 足利義教は三代将軍・足利義満の子で――

 兄・足利義持(よしもち)が幼くして四代将軍になっていたために、自身は幼くして僧侶になっていました。

 

 その後、兄の子であった五代将軍・足利義量(よしかず)が早死にをし、兄・足利義持も亡くなったために――

 将軍の後継者がいなくなりました。

 

 そこで、幕府の重臣たちは、四代将軍・足利義持の弟たちの中から、くじ引きによって選ばれた者を、六代将軍とすることに決めます。

 それによって選ばれたのが足利義教でした――30代半ばのことです。

 

 足利義教は、幕府の威信を高めるために、かなり強引な政治を行ったようです。

 有力な守護大名たちの後継者を全て自分の思い通りに決めようとしたらしいのですね。

 そんな足利義教を、赤松満祐は幕府の宿老として支えます。

 当初は、2人の関係は良好であったようです。

 

 が――

 やがて足利義教が赤松満祐を疎むようになり――

 赤松満祐の領地を取り上げようとしたようです。

 

 おそらく、それよりも前に、赤松満祐の方が足利義教の強権的な政治手法に愛想を尽かしたのでしょう。

 それを感じとった足利義教が、

 ――逆恨みをした。

 というのが真相ではなかったかと思います。

 

 足利義教は宴席で騙し討ちにあっているので――

 これは、あきらかに、

 ――変

 です。

 

 ふつうに考えれば、閉鎖性の高い争いとみなされます。

 

 が――

 

 ――嘉吉の変

 は、むしろ、

 ――嘉吉の乱

 と呼ばれることのほうが多いのですね。

 

 なぜでしょうか。

 

 ……

 

 ……

 

 続きは――

 あすの『道草日記』で――

乙巳の変が「乙巳の乱」と呼ばれない理由

 ――「変」か「乱」かの違いは、政権をめぐる争いの閉鎖性ないし開放性に依っている。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 このことを、

 ――乙巳(いっし)の変

 を例にとって述べましょう。

 

 ――乙巳の変

 については、1月27日の『道草日記』で述べました。

 大化の改新で有名な中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らが、当時、政治の実権を握っていた豪族の当主――蘇我入鹿(そがのいるか)――を宮廷に呼び寄せ、欺き殺したとされる事件です。

 

 この事件で当主を失った蘇我(そが)氏は――

 その後、日本史の表舞台の中央に立つことは、二度とありませんでした。

 

 蘇我入鹿が宮廷で暗殺をされたとき――

 父親の蘇我蝦夷(そがのえみし)は還暦を迎えながらも健在であったと伝えられています。

 

 蘇我入鹿の暗殺の報せに触れ――

 先代の当主である蘇我蝦夷に味方をしようと、それなりの数の者たちが集まってきたようですが――

 蘇我蝦夷は、運ばれてきた息子の亡骸を目の当たりし、戦意を失い、邸宅に火を放って自ら命を絶ったといわれます。

 

 このとき――

 もし蘇我蝦夷が、もう10歳くらい若ければ――

 中大兄皇子らを相手に一か八かの戦いを挑んだかもしれません。

 

 中大兄皇子らの採った、

 ――暗殺

 という手段を、

 ――卑劣である。

 といって糺し――

 世に広く檄を飛ばすことで――

 さらに多くの味方を募ったかもしれません。

 

 そうなれば、

 ――乙巳の変

 は、

 ――乙巳の乱

 と呼ばれるようになっていたでしょう。

 

 ――争いの開放性

 が増したからです。

 

 実際には――

 蘇我蝦夷は、中大兄皇子らの手段を糺すこともなく、檄を飛ばすこともなく、自殺を遂げました。

 

 ――争いの開放性

 は減り、

 ――争いの閉鎖性

 が増す方向で断を下したのです。

 

 それゆえに、

 ――乙巳の変

 は、

 ――乙巳の乱

 ではありえません。

変か乱か――開放性ないし閉鎖性の観点から――

 ――民主主義の社会では、“変”は“密議”のことであり、“乱”は“選挙”のことである。

 ということを――

 おとといの『道草日記』で述べました。

 

 このことに着目をすると――

 “変”と“乱”との分類については、

 ――閉鎖性

 ないし、

 ――開放性

 に依っていると考えることもできます。

 

 つまり、

 ――争いの規模が大きければ「乱」であり、小さければ「変」である。

 というのではなく、

 ――争いが開放的であれば「乱」であり、閉鎖的であれば「変」である。

 ということです。

 

 ここでいう、

 ――開放的

 とは――

 民主主義の社会における、

 ――公開討論

 の様相を帯びている、ということで――

 ――閉鎖的

 とは――

 民主主義の社会における、

 ――密室裁定

 の様相を帯びている、ということです。

 

 争いが開放的であれば――

 それだけ巻き込まれる人たちは増えますから――

 当然、争いの規模は大きくなります。

 

 争いが閉鎖的であれば――

 それだけ巻き込まれる人たちは減りますから――

 当然、争いの規模は小さくなります。

 

 つまり、

 ――「変」と「乱」との違い

 については、

 ――争いの規模

 は、二次的な原因に過ぎず――

 一次的な原因としては、

 ――争いの閉鎖性ないし開放性

 が挙げられる――

 ということです。

 

 この「閉鎖性ないし開放性」は、

 ――密室性ないし公開性

 といっても、よいのかもしれません。

 

 ……

 

 ……

 

 こうした観点に立ちますと――

 権威主義の社会では、

 ――乱

 より、

 ――変

 が好まれ――

 民主主義の社会では、

 ――変

 より、

 ――乱

 が好まれるのは――

 至極、当然といえます。

 

 権威主義の政権では、物事は、閉鎖的な密室裁定で決まっていくのが当たり前とされています。

 民主主義の政権では、物事は、開放的な公開討論で決まっていくのが望ましいとされています。

変と乱との分類に絡めないのがよい観点

 ――争いの規模が大きければ「乱」であり、小さければ「変」である。

 ということを――

 5日前の『道草日記』で述べました。

 

 この命題は――

 わりと重要そうな別の主張を暗に示しています。

 

 それは、

 ――その争いが“変”か“乱”かということと、その“争いの帰結”がどうなったかということとは、本質的には無関係である。

 という主張です。

 

 ――変

 や、

 ――乱

 では、争いを仕掛けた者たちが必ず存在をします。

 

 その者たちの企てが、成功をしたか、失敗をしたか、ということと――

 その争いが、その後に「変」と呼ばれるか、「乱」と呼ばれるか、ということとは――

 基本的には、関連がありません。

 

 一般に、

 ――変

 といいますと――

 政権側が反政権側を、その勢力が弱いうちに打ち負かしてしまったり、切り崩してしまったりしたことが暗示をされます。

 

 つまり、

 ――変

 では、政権の交代は起こりません。

 

 一方、

 ――乱

 といいますと――

 政権側が反政権側の強い勢力によって倒されたり、倒されそうになったりしたことが暗示をされます。

 

 つまり、

 ――乱

 では、政権の交代が起こる場合と起こらない場合とがあるのです。

 

 加えて――

 

 ――変

 の中には――

 例えば、織豊期における、

 ――本能寺の変

 のように、政権の交代が確かに起こったような事例が含まれます。

 

 ――本能寺の変

 では、織田信長の政権が明智光秀の裏切りによって瓦解をしました。

 僅かな数の近習のみを率いて京の寺である本能寺に宿泊をしていた織田信長は、明け方に明智光秀の軍勢に襲われ、暗殺も同然に、自殺へと追い込まれました。

 

 要するに、

 ――変

 においても――

 政権側が必ずしも反政権側を打ち負かしたり、切り崩したりしているとは、ちょっと、いえないのですね。

 

 このように、

 ――争いの帰結

 という観点から考えていくと、

 ――変

 も、

 ――乱

 も、どんどん細分化をされていきます。

 

 どんどん細分化をされていけば――

 そもそも――

 最初の段階で、なぜ、

 ――変

 と、

 ――乱

 との2つに分類がされていたのかが、よくわからなくなるのです。

 

 よって、

 ――変

 と、

 ――乱

 との分類には、

 ――争いの帰結

 という観点を絡めないほうが、わかりやすくなる、と――

 僕は考えています。

変か乱か――人の世の流れの観点から――

 ――「変」と「乱」との違い

 について考えています。

 

 権威主義の社会では、

 ――変

 のほうが、

 ――乱

 よりも好まれ――

 民主主義の社会では、

 ――変

 よりも、

 ――乱

 のほうが好まれる――

 と述べました。

 

 民主主義の社会では、

 ――変

 は、

 ――密議

 あるいは、

 ――密室裁定

 のことであり、

 ――乱

 は、

 ――選挙

 あるいは、

 ――公開討論

 のことであるのですね。

 

 2020年4月19日の『道草日記』で述べたように――

 人の世は、大まかにいって、

 ――権威主義から民主主義へ

 の流れにあります。

 

 少なくとも僕には――

 そのように思えます。

 

 ごく簡単にいってしまうと――

 原始・古代では、権威主義が主流であったものが――

 近代・現代では、民主主義が主流になりつつある――

 ということです。

 

 この人の世の流れを重くみるか軽くみるかによって、

 ――変

 や、

 ――乱

 への見方も変わります。

 

 人の世において――

 依然、権威主義の思想が主流であると考える人は、

 ――変

 を好んで、

 ――乱

 を嫌うでしょう。

 

 一方――

 もはや民主主義の思想が主流であると考える人は、

 ――変

 を嫌って、

 ――乱

 を好むでしょう。

 

 ……

 

 ……

 

 民主主義の社会において――

 ときどき、

  選挙 = 乱

 の結果を撥ね付け、

  密議 = 変

 の結果を押し通そうとする人が出てきます。

 

 そういう人は――

 民主主義の思想を拒む以前に――

 人の世が、

 ――権威主義から民主主義へ

 の流れにあるとの認識を拒んでいる可能性があります。

 

 そうであれば――

 その人は、

 ――時代の波に取り残されている。

 とみて、ほぼ間違いはありません。

 

 が――

 そうではなくて――

 

 人の世が、

 ――権威主義から民主主義へ

 の流れにあることは認めているが――

 その流れに乗ることで、争いに巻き込まれる犠牲者が多く出ることを恐れる人というのも――

 いないことはないように思うのです。

 

 人の世は一様ではありません。

 

 ――権威主義から民主主義へ

 の流れが速くて確かな国や地域と――

 そうでない国や地域とがあります。

 

 そうでない国や地域にいる人は――

 たとえ、

 ――時代の波に取り残されている。

 との誹りを受けようとも、

 ――乱

 ではなく、

 ――変

 を選ぶでしょう。

 

 その胸裏には、

(たぶん、忸怩たる思いが潜んでいる)

 ということを――

 僕らは見逃さないほうがよいと思うのです。