マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

建武政権が短期間で倒れた理由

 ――後醍醐(ごだいご)天皇は、天皇としての権威を巧みに活かすことによって、失っていた権力を強引に奪い返そうとした。

 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 後醍醐天皇の政権――建武(けんむ)政権――は、ごく短い期間で潰えましたが――

 その理由は、

 ――権威だけで権力を強引に奪い返そうとした。

 ということに尽きるでしょう。

 

 今から30年ほど前までは、

 ――建武政権が短期間のうちに倒れたのは、いわゆる“建武の新政”で打ち出された政策が悪かったからである。

 と考えられていました。

 

 が――

 今は、

 ――“建武の新政”それ自体は、決して、そんなに悪い政策ではなかった。

 との考えが主流になりつつあるそうです。

 

 では――

 建武政権は、なぜ短期間のうちに倒れてしまったのか――

 

 それは、

 ――権威だけで権力を強引に奪い返そうとした。

 からに、ほかなりません。

 

 遅くとも平安末期までに――

 この国の権力は、武士の力――武力――によって下支えがされるようになりました。

 

 要するに、

 ――武力を握る者だけが権力を握れるようになった。

 ということです。

 

 後醍醐天皇は武力を直接的には握っていませんでした。

 鎌倉末期の有力な武士らを従えることで間接的に武力を握っていました。

 

 鎌倉幕府を滅ぼし、建武政権を打ち立てたのは――

 間接的には後醍醐天皇なのですが――

 直接的には鎌倉末期の有力な武士ら――足利尊氏新田義貞楠木正成赤松則村ら――です。

 

 なかでも――

 足利尊氏が別格で――

 他の武士らに与えた影響力は頭抜けていたといわれます。

 

 彼が鎌倉幕府を本気で見限ったから――

 後醍醐天皇は権力を握れたのであり――

 

 彼が鎌倉幕府を本気で見限らなければ――

 鎌倉幕府が武力で打倒をされることはなく、また、おそらく後醍醐天皇が権力を握ることもなかったのです。

 

 鎌倉幕府を滅ぼしたのは、実質的には足利尊氏でした。

 

 が――

 その実態を、後醍醐天皇や、その側近らは、今一つ、わかっていなかったようです。

 

 足利尊氏や、足利尊氏を慕う武士らは――

 足利尊氏鎌倉幕府の祖である源頼朝と同等の扱いを受けるものと思っていたと考えられます。

 

 すなわち――

 源頼朝が将軍となって幕府を開いたように、足利尊氏もまた将軍となって幕府を開き―― 

 その政権に後醍醐天皇がお墨付きを与えることを素朴に信じていたようなところがあるのです。

 

 それゆえにこそ――

 足利尊氏も、足利尊氏を慕う武士らも、後醍醐天皇に従って鎌倉幕府を滅ぼしたのです。

 

 が――

 後醍醐天皇は、足利尊氏を将軍には任じなかったのですね――正確には、源頼朝が任じられた征夷大将軍には任じずに、他の呼称の将軍に任じたのです。

 

 これに堪えきれず――

 足利尊氏は、後醍醐天皇に反旗を翻します。

 

 そして――

 南北朝期の騒乱を経て――

 孫の足利義満の代まで費やし、新たな幕府――室町幕府――を打ち立てるのですが――

 

 もし――

 後醍醐天皇が、早々に足利尊氏を将軍に任じ、幕府を開かせていれば――

 当然のことながら、その後の南北朝期の騒乱はなく――

 また、後醍醐天皇自身、後世の歴史家から「好戦的で、執念深く、やや知性に欠ける」などと不当な誹りを受けることもなかったでしょう。

 

 むしろ――

 明治天皇と同じくらいに幅広く日本列島の人々から敬愛をされる天皇になっていたと考えられます。

建武政権の成立は“政体の復古”であった

 ――建武(けんむ)政権の後退性

 について――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ――建武政権

 というのは――

 鎌倉末期に即位をした天皇――後醍醐(ごだいご)天皇――が、鎌倉幕府の滅亡の後に打ち立てた政権です。

 

 いわゆる、

 ――建武の新政

 と呼ばれる新たな諸政策を試み――

 それら政策が後世の室町幕府によって部分的に受け継がれていくなど――

 それなりの先進性を示した政権でしたが――

 わずか3年で潰えた政権でもあります。

 

 ……

 

 ……

 

 きのうの『道草日記』でも述べたように――

 僕のいう「建武政権の後退性」は、

 ――“建武の新政”の頓挫

 を指しているのではありません。

 

 ――“政体――政治の体制――”の復古

 を指しています。

 

 具体的には、

 ――権威と権力との在り方

 です。

 

 思いっきり大雑把にいうと――

 平安期から鎌倉期にかけて――

 この国の政体は、

 ――権威と権力とが天皇ないし天皇の周辺に集まっていた状態から、権力だけが武家の棟梁ないし武家の棟梁の準じる指導者へと移り、権威だけが天皇ないし天皇の周辺に残った状態となった。

 と、みなすことができます。

 

 後醍醐天皇建武政権は、手元に残っていた権威を保った上で、武家の棟梁ないし武家の棟梁に準じる指導者へ移っていた権力を奪い返したわけですね。

 この後醍醐天皇による権力の奪回は、その後の時代――南北朝期、室町期――を経て、権力が再び武家の棟梁へ移っていくことと考え併せると――

 あきらかに時代の流れに逆行をしていたと、わかります。

 

 僕が、建武政権の成立を、

 ――政体の復古

 と、みなすのは――

 そうした理由によります。

 

 つまり――

 鎌倉幕府の時代には、権威と権力とが分かれていたにもかかわらず――

 建武政権の時代になって、それらを再び強引に結びつけようとした――

 ということです。

 

 ――強引に――

 というのは――

 後醍醐天皇が、武力を直接的には用いずに、権威を巧みに活かすことによってのみ、権力を奪い返そうとしたからです。

 

 もし、後醍醐天皇が、武力を直接的に用いて――例えば、自ら戦場に出向き、軍勢を率いて鎌倉幕府に戦いを挑み、それを滅ぼすことによって――権力を奪い返そうとしたのなら――

 それを、

 ――強引に――

 ということはできません。

建武政権――明治政府の500年ほど前に誕生をしていた政権

 ――明治政府の先進性

 は、

 ――後退性を包(くる)んだ先進性

 であった――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 要するに――

 明治政府の中核にあったのは、

 ――後退性

 であり――

 ――先進性

 は、ただ表層を覆っていたにすぎない――

 ということです。

 

 実は――

 

 ――先進性

 という“衣”をまとわず、

 ――後退性

 という“身”ひとつで勝負をした政権が――

 明治政府の500年ほど前に誕生をしていました。

 

 後醍醐(ごだいご)天皇の政権です。

 

 元号をとって、

 ――建武(けんむ)政権

 と呼ばれます。

 

 この政権が試みた政治や、その施策は、

 ――建武の新政

 と呼ばれましたが――

 それら試みは、わずか3年で頓挫をしました。

 

 この「わずか3年」というのが印象的であるからか――

 「後醍醐天皇」という人名や「建武政権」という言葉よりも「建武の新政」という言葉のほうが広く知られているような気がします。

 

 ……

 

 ……

 

 ――建武政権

 は、

 ――明治政府

 と違って――

 その中核にあった、

 ――後退性

 が剝き出しになっていた、と――

 僕は考えています。

 

 建武政権では“後退性”を包んだ先進性が――全くではないにせよ――ほぼ、なかったのですね。

 

 それは当然でした。

 

 明治政府の先進性は、西欧列強の外交圧力がもたらしていたのです。

 

 建武政権の時代には――

 そうした外交圧力は、ほぼありませんでした。

 

 よって――

 建武政権が先進性を帯びることは原理的にありえなかった、と――

 いえます。

 

 この指摘は、建武政権を貶めるものではありません。

 

 建武政権に明治政府のような外交圧力がかからず――

 その後退性ばかりが目立ってしまったことは――

 たんに運・不運の問題といえます。

 

 建武政権は、明治政府と比べて、そんなに劣っていたわけではない、と――

 僕は考えています。

 

 ……

 

 ……

 

 後醍醐天皇は――

 わかりにくい人物です。

 

 30年ほど前までは、

 ――好戦的で、執念深く、やや知性に欠ける人物

 と評されていました。

 

 が――

 近年の実証的な研究成果から、

 ――本来は融和的で、愛情深く、高い知性を備えた人物

 ではなかったか、と――

 評され始めています。

 

 こうした後醍醐天皇の“わかりにくさ”に象徴をされるように――

 建武政権や、その政策である“建武の新政”も、けっこう、わかりにくいのですね。

 

 きょうは結論だけを述べます。

 

 今日の歴史研究者の多くは、

 ――建武の新政

 は、時代の流れに逆行をした無理筋の政治であったとは考えていないようです。

 

 むしろ、

 ――後世の室町幕府が導入をし、確立をさせた政策の多くが、建武の新政によって着手をされていた。

 と考えています。

 

 よって――

 僕のいう、

 ――建武政権の後退性

 は、

 ――建武の新政

 の頓挫をさしているのではありません。

 

 ――建武の新政

 は、むしろ先進性を感じさせるくらいのものでした。

 

 僕のいう、

 ――建武政権の後退性

 は、

 ――政体――政治の体制――

 の復古をさしています。

明治政府の先進性――後退性を包んだ先進性

 ――明治政府には、いわゆる“五箇条の御誓文”に象徴をされるような、ある程度の先進性があった。

 ということを、1月15日の『道草日記』で述べました。

 

 明治政府に先進性があったことは誰にも否定できないでしょう。

 

 が――

 その先進性を額面通りに受けとるのは、

 (ちょっと違うのではないか)

 と、僕は思っています。

 

 ――明治政府の先進性

 は、

 ――後退性を包(くる)んだ先進性

 でした。

 

 ここでいう「後退性」とは――

 文字通り、

 ――時代の逆行性

 もう少し明確にいえば、

 ――時代錯誤性

 です。

 

 明治政府はクーデターで政権をとって発足をしたことは――

 1月1日以降の『道草日記』で繰り返し述べている通りですが――

 

 そのクーデターを――

 明治政府の首脳部らは、

 ――王政復古

 と呼びました。

 

 ここにこそ、明治政府の“時代錯誤性”が――「時代錯誤性」がキツすぎるのであれば「後退性」といってもよいのですが――要するに“時代の逆行性”が結実をしています。

 

 もちろん、

 ――王政復古

 のクーデターでは、幕府が廃止をされただけでなく、摂政・関白の役職も廃止をされ、代わりに「総裁」や「議定」「参与」といった目新しい呼称の役職が置かれるなど――

 一見、後戻りをしたようには感じられなかったのですが――

 実際に行ったことは、いわゆる武家政権が鎌倉期に誕生をする前の平安期にまで、政体――政治の体制――を戻すということに他なりませんでした。

 

 要するに――

 明治政府は、

 ――後戻りをしながら前のめりになった

 といえるのです。

 

 床を転がるボールに喩えると――

 普通に転がっていたボールが、にわかに逆回転を始め、後ろに転がろうとしたのに、どういうわけか前へ進んでいったのです。

 

 逆回転のボールが、なぜ前へ進んでいったのか――

 

 それは、

 ――西欧列強の外交圧力

 に吹きさらされたからです。

 

 もう少し有り体にいってしまえば、

 ――日本列島が西欧列強の植民地にされるのを恐れたから――

 です。

 

 それは――

 明治政府の首脳部も、その首脳部の周辺も、明治政府の部外者も、心ある者なら誰しもが等しく抱えたであろう恐れでした。

 

 僕が、

 ――明治政府の先進性

 というときに、その「先進性」が意味するところは、

 ――後退性を包んだ先進性

 です。

ファシズムは昭和前期に西欧から持ち込まれたのではない

 ――明治政府は民主主義のことを多少は考えていた。

 ということを、おとといの『道草日記』で述べました。

 

 が、

 ――民主主義の隣にファシズムがある。

 との警句――きのうの『道草日記』で少し詳しく述べた警句――については――

 明治政府は全く把握をしていなかったはずです。

 

 もちろん――

 明治政府の首脳部が、

 ――ファシズム

 という言葉に触れる機会は――

 少なくとも創成期においては――

 ありえませんでした。

 

 西欧(イタリア)でファシズムが台頭を始めたのは1920年代――日本列島でいえば、大正期および昭和前期――のことですから――

 当然です。

 

 もちろん――

 僕がいいたいのは――

 そういうことではなくて――

 

 ……

 

 ……

 

 きのうの『道草日記』で、

 ――民主主義の隣にファシズムがある。

 との警句は、

 ――特定の個人や集団に狂信的に従うな。

 という警告と、

 ――異論を暴力的に封じるな。

 という警告との2つに置き換えられる――

 と述べました。

 

 つまり――

 僕がいいたいのは、

(明治政府は創成期から「特定の個人や集団に狂信的に従うのは危険だ」とか「異論を暴力的に封じると危険だ」とかいった懸念には無頓着だった)

 ということです。

 

 何といっても――

 明治政府はクーデターで生じた政権・政体ですから――

 それは、

 ――必然

 といえました。

 

 ――宿命

 といってもよいでしょう。

 

 そもそも――

 明治政府の首脳部は――

 創成期において、

 ――天皇

 という名の権威の下に結束をし――

 自分たちの見解に賛同をしない旧徳川幕府の関係者を武力で追い払いました。

 

 その一方で、

 ――五箇条の御誓文

 を掲げ、

 ――広く会議を興し、万機公論に決すべし。

 とやった――

 

 これでは、

 ――明治政府はファシズムを創成期から志向していた。

 といっても過言ではありません。

 

 要するに――

 明治政府の首脳部は、「ファシズム」という言葉こそ、用いなかったけれども――

 彼らが創成期から目指していたのは、「ファシズム」という概念の創出ないし確立であった――

 といえるのです。

 

 日本列島の人々は――

 ファシズムを昭和前期に西欧から持ち込んだのでなく――

 明治期から自前で用意をしていた、と――

 いえます。

 

 それゆえにこそ――

 僕らは、

 ――民主主義の隣にファシズムがある。

 との警句には――

 殊更に敏感であるのがよいのです。

 

 少なくとも他人事では全くありえないのです。

民主主義の隣にファシズムがある理由

 ――民主主義の隣にファシズムがある。

 との警句について――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ――ファシズム

 というのは――

 ラテン語で「束」を意味する「fascis(ファスキス)」の複数形「fasces(ファスケース)」が語源になっているといわれています。

 

 このことから、

 ――ファシズム

 というカタカナ表記は、

 ――結束主義

 と漢字表記に置き換えられることもあります。

 

 ――ファシズム

 を、

 ――結束主義

 といいかえると、いま一つ実感がわかなくなりますが――

 ここでは、語義的なわかりやすさを重くみて、あえて、

 ――結束主義

 と記します。

 

 つまり、

 ――民主主義の隣にファシズムがある。

 との警句は、

 ――民主主義の隣に結束主義がある。

 という意味であり――

 ひいては、

 ――民主主義と結束主義とは紙一重である。

 と同義です。

 

 ここでいう「民主主義」とは――

 きのうの『道草日記』で述べたように、

 ――国家の主権が民衆にあることを認め、民衆の代表が集まる議会などで合議の手続きをとっていく政治の体制――政体――

 を意味しています。

 

 一方――

 ここでいう「結束主義」については、実は様々な見解があり、簡単に述べることはできないのですが――

 鍵となる概念が「独裁」や「煽動」であることに着目をして、ひとまず、

 ――国家の主権が特定の個人や集団にあることを認め、そうした個人や集団に民衆が盲目的に従うように仕向ける政治の体制――政体――

 としましょう。

 

 これらの語義を踏まえ――

 なぜ、

 ――民主主義と結束主義とは紙一重である。

 といえるのかを考えていきますと――

 結論に至るのは――

 それほど難しくありません。

 

 ――民主主義において、合議の手続きがとられる際に、特定の個人や集団によって統率をされた多数派が、異論のある少数派を脅し、強引に従わせると、民主主義は結束主義に変質をする。

 という結論です。

 

 こう述べると、

 ――民主主義の原則の一つに多数決があること

 を示し、

 ――それでは「民主主義」と「結束主義」とは同義になる。

 と反駁をする向きもあろうかと思います。

 

 たしかに、多数決は民主主義の原則です。

 

 よって――

 もちろん多数決が結束主義をもたらすのではありません。

 

 その多数決の際に、多数派が特定の個人や集団に盲従をしていて、かつ、その多数派が少数派に恫喝をするときに――

 結束主義がもたらされるのです。

 

 つまり――

 多数派が特定の個人や集団に狂信的に従うことがなく、かつ、少数派の異論を暴力的に封じることがなければ――

 民主主義が結束主義に変質をすることありません。

 

 ――民主主義の隣にファシズムがある。

 との警句は、

 ――特定の個人や集団に狂信的に従うな。

 および、

 ――異論を暴力的に封じるな。

 という警告に置き換えることができる――

 ということです。

明治政府は民主主義を考えていたか

 ――明治政府は文民統制のことなど考えもしなかったのではないか。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 では、

 ――民主主義

 は、どうであったでしょうか。

 

 ここでいう、

 ――民主主義

 とは、

 ――国家の主権が民衆にあることを認め、民衆の代表が集まる議会などで合議の手続きをとっていく政治の体制――政体――

 のことです。

 

 明治政府は民主主義のことは、どれくらい考えていたでしょうか。

 

 ……

 

 ……

 

 (それなりに考えていた)

 と、僕は思っています。

 

 ただし――

 明治政府は、国民の主権が民衆にあるとは認めていません。

 

 国家の主権は、

 ――大権

 として天皇に認められていました。

 

 とはいえ――

 いわゆる、

 ――五箇条の御誓文

 の第一条、

 ――広く会議を興し、万機公論に決すべし。

 をみれば――

 

 (まあ、明治政府も民主主義のことを少しは考えていたのではないか)

 と、いえなくもないでしょう。

 

 “五箇条の御誓文”は、大権を握る天皇が、

 ――天地神明に誓う。

 という形式をとっています。

 

 民衆に主権はなく、天皇に大権があるけれども――

 その天皇が、

 ――広く会議を興し、万機公論に決すべし(様々な会議を催し、すべてのことを公に論じ合った上で決めていく)。

 と誓っているのですから――

 当時の明治政府の首脳部も、多少は民主主義のことを考えていたと感じられます。

 

 ……

 

 ……

 

 もちろん――

 厳密にいえば――

 “五箇条の御誓文”が、今日でいうところの民主主義を十分に踏まえていたとはいえませんが――

 この第一条、

 ――広く会議を興し、万機公論に決すべし。

 があったために――

 後年、これに拡大解釈がなされ、議会が設置をされるに至り――

 ひいては、今日でいうところの民主主義に通じうる底流が日本列島にもたらされた――

 とはいえるでしょう。

 

 この辺りは明治政府の良い点であり――

 ある程度の先進性を示していたといってよいと思います。

 

 ただし――

 それは手放しで褒め称えうることではありませんでした。

 

 どういうことかというと――

 

 ……

 

 ……

 

 作家の半藤一利さんがお亡くなりになりましたね。

 1月12日のことであったそうです。

 

 すでに90歳におなりであり――

 昨今では、始まったばかりの連載企画から退かれたりされていたので、

 (たぶん、ご体調が思わしくないんだろう)

 と拝察はしておりましたが――

 

 こうして、ご訃報に触れてみると――

 これからの日本列島の行く末が気になって、何だか心細く感じられます。

 

 ……

 

 ……

 

 半藤さんがご著書の中で繰り返し述べていらしたことに、

 ――民主主義の隣にファシズムがある。

 という警句があります。

 

 ここでいう、

 ――ファシズム

 とは――

 世界の近現代史でいうところの一般的な意味での「ファシズム」――結束主義――のことです。

 

 第二次世界大戦の頃のイタリアやドイツの動向――自国の民衆を狂信的に団結させた上で他国に侵略をしていくという外交・軍事の施策――そして、同じ頃に日本政府が採った軍国体制――は、しばしば、

 ――ファシズム

 と呼ばれます。

 

 半藤さんのお考えをお借りすると――

 明治政府――いわゆる戦前の日本政府――がファシズムに傾倒をしていったのは――

 民主主義の底流が、あらかじめ明治政府によって日本列島にもたらされていたからである――

 といえるでしょう。

 

 つまり、

 ――なまじ明治政府が民主主義のことを考えていたので、後世、日本はファシズムに傾倒をしていった。

 ということです。

 

 “五箇条の御誓文”に象徴をされる明治政府の先進性を――

 僕が手放しで褒め称える気にならないのは――

 そうしたことによります。

明治政府は文民統制など考えもしなかった

 ――明治政府の失敗を“文民統制”の視点で考えようとすると、頭が混乱をする。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ありがちな混乱は、

 ――いわゆる戦前の日本は、文民統制が徹底をされていなかったにも関わらず、どういうわけか、第一次世界大戦の頃までは、外交・軍事で大きな失敗をしなかった。しかし、第二次世界大戦の頃は、文民統制が徹底をされていなかったがゆえに、外交・軍事で大きな失敗をした。

 というものです。

 

 こうした考えによると、

 ――どういうわけか――

 の疑問に答える必要が生じます。

 

 その答えとして、

 ――第一次世界大戦の頃までは、政治家も軍人も阿吽の呼吸で助け合っていたために、何となく文民統制がなされていたからである。

 とか、

 ――第一次世界大戦の頃までは、多くの軍人が政治のこともわかっていたために、文民統制的な発想に自然とよることができたからである。

 とかいった理由付けが挙げられます。

 

 たしかに――

 どうしても「文民統制」という言葉を用いるなら――

 このような理由付けは、まずまず妥当でしょう。

 

 少なくとも「完全に的を外している」ということはありません。

 

 が――

 ちょっと、わかりにくいのですね。

 

 ……

 

 ……

 

 もし、「文民統制」という言葉を用いずに――

 先ほどの内容、

 ――いわゆる戦前の日本は、文民統制が徹底をされていなかったにも関わらず、どういうわけか、第一次世界大戦の頃までは、外交・軍事で大きな失敗をしなかった。しかし、第二次世界大戦の頃は、文民統制が徹底をされていなかったがゆえに、外交・軍事で大きな失敗をした。

 を述べ直すならば――

 次のようになります。

 

 ――いわゆる戦前の日本は、第一次世界大戦の頃までは、外交・軍事を政治の一部とみなしていたが、第二次世界大戦の頃は、外交・軍事を政治の一部とみなさなくなっていたがゆえに、外交・軍事で大きな失敗をした。

 となります。

 

 つまり――

 いわゆる戦前の日本に限らず――

 ある政府が外交・軍事で大きな失敗をするかどうかと、その政府で文民統制が徹底をされているかどうかとは――

 根本的に無関係である――

 ということです。

 

 文民統制が徹底をされていても――

 その「文民」である政治家が、外交・軍事の目的を達するために政治を動かしていれば、いつかは苦渋の挫折を味わうことになるし――

 文民統制が徹底をされていなくても――

 その「文民」ではない軍人が、政治の目的を達するために外交・軍事を動かしていれば、ひとまず苦渋の挫折を味わうことにはなりません。

 

 明治政府の首脳部は、はなから文民統制など考えもしなかったようです。

 外交・軍事を含む政治の全てを、憲法上、少なくとも形式的には、天皇が司ることにしていました。

 

 そして――

 その天皇を、どちらかといえば、

 ――軍人

 として――

 

 ――政治家

 として――ではなく、

 ――軍人

 として――

 

 自分たちの政体――政治の体制――の頂点に戴くことを望みました。

 

 そのために――

 明治期から昭和前期にかけて――

 天皇は軍服姿で記録に残されることが圧倒的に多かったのです。

 

 そんな明治政府――いわゆる戦前の日本――を“文民統制”の視点で考えることに、どれほどの意義があるのか――

 少なくとも僕には、はなはだ疑問です。

明治政府の失敗を“文民統制”の視点で考えると……

 近代以降――

 軍事を握り続けるのに必要な知識や理解が膨大になったことから、

 ――政治と軍事とに関わる矛盾

 を隠すために、

 ――軍事の文民統制

 という思想が必要とされ始めた――

 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ――軍事の文民統制

 は、

 ――軍事の――

 を付さず、たんに、

 ――文民統制

 と、いわれるのが普通です。

 

 明治政府が文民統制を疎かにしたことは――

 しばしば指摘をされるところです。

 

 ――それゆえに、昭和前期の日本は勝てるはずのない太平洋戦争に突き進んでいったのだ。

 と――

 

 ……

 

 ……

 

 この指摘は、

 (少しズレている)

 と、僕は考えています。

 

 明治政府は、たしかに文民統制を疎かにしました。

 

 が――

 明治政府における、

 ――文民統制の軽視

 と、その後の、

 ――太平洋戦争の勃発

 とは、ただ相関をしていただけで――

 直接の因果関係はなかった、と――

 僕は考えています。

 

 明治政府が文民統制を疎かにしたのは――

 1月10日の『道草日記』で述べた通り、

 おそらくは、

 ――政治と軍事とに関わる矛盾

 に気を配れなかったからです。

 

 なぜを気を配れなかったかといえば――

 

 それは――

 1月9日の『道草日記』で述べた通り、

 明治政府は、

 ――軍事を握った者が政治を握ってきた。

 という歴史的経緯をあえて重くみなかったから――あるいは、重くみることができなかったから――でしょう。

 

 これらの結果として――

 後世、

 ――統帥権干犯問題

 などが生じ――

 日本は、やがて勝てるはずのない太平洋戦争へ突き進んでいった――

 その一方で――

 明治政府の政体――政治の体制――では、

 ――文民統制の軽視

 が顕在化をしていった――

 そういうことです。

 

 つまり――

 明治政府における、

 ――文民統制の軽視

 と、その後の、

 ――太平洋戦争の勃発

 とは根を同じくする問題であり、一つの問題の違った側面なのであって――

 

 ――文民統制の軽視

 という原因が、

 ――太平洋戦争の勃発

 という結果を生んだのではない、と――

 僕は考えています。

 

 ……

 

 ……

 

 明治政府の失敗は、

 ――文民統制

 の視点では考えないほうがよい、と――

 僕は感じています。

 

 無理に考えようとすると――

 かえって頭が混乱をするようです。

“軍事の文民統制”の原型

 ――政治と軍事とに関わる矛盾

 について、おとといの『道草日記』で述べました。

 

 簡単に述べなおすと――

 

 ――軍事は外交の一部であり、外交は政治の一部である。

 との社会的原理がある一方で、

 ――軍事を握った者が(外交を含む)政治を握ってきた。

 との歴史的経緯がある――

 という矛盾です。

 

 この矛盾を隠すには――

 おとといの『道草日記』で述べたように、

 ――軍事を握った者が政治を握った後で「政治は軍事に優越をする」という原理に従うこと

 が必要です。

 

 ところが――

 近代以降になると――

 軍事の技術が政治の技術よりも遥かに速く進んだために、

 ――政治を握りつつ、軍事も握る。

 ということが難しくなりました。

 

 軍事を握り続けるのに必要な知識や理解が格段に広まり、かつ深まったために、

 ――政治を顧みる片手間に軍事も顧みる。

 ということが難しくなったのです。

 

 よって――

 政治家は軍事の実務を軍人に任せる必要が生じてきました。

 

 先ほど、

 ――軍事と政治とに関わる矛盾

 を隠すには、

 ――軍事を握った者が政治を握った後で「政治は軍事に優越をする」という原理に従うこと

 が必要である――

 と述べました。

 

 つまり、

 ――軍事と政治とに関わる矛盾

 を――

 近代以降においても――つまり、政治家が軍事の実務を軍人に任せざるをえなくなった近代以降においても――隠し続けるには、

 ――軍人は政治家に従うこと

 との条件が常に満たされていなければならないのです。

 

 この構図が――

 いわゆる、

 ――軍事の文民統制

 の原型です。

 

 ここでいう「文民」とは、

 ――軍事の実務に携わっているわけではない政治家、あるいは、そのような政治家を支えている民衆

 という意味です。