マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

2019-10-01から1ヶ月間の記事一覧

「粋」や「野暮」で通底している

――恋愛と芸術とは相性が良い。 と、きのうの『道草日記』で述べました。 少し違った視点から考えてみましょう。 恋愛も芸術も、どちらも、 ――粋(いき) と、 ――野暮(やぼ) という2つの視点から考えることができます。 「粋」も「野暮」も、日本の江戸期…

恋愛と芸術との相性が良い理由

――恋愛は、芸術が扱う主題として、頭抜けて多い。 ということを、きのうの『道草日記』の中で述べました。 これは、なぜなのか―― 理由は2つあります。 1つは、恋愛が極めて主観的で切迫性のある体験であること―― 自分の恋愛感情を冷静かつ緩徐に客観視する…

“閉じた恋愛芸術”と“開いた恋愛芸術”と

芸術を、 恋愛芸術 非恋愛芸術 の2つに分ける考え方について、きのうの『道草日記』で述べました。 ここでいう“恋愛芸術”は、さらに2つに分けられると思っています。 閉じた恋愛芸術 開いた恋愛芸術 の2つです。 小説を例にとりましょう。 “閉じた恋愛芸…

“恋愛芸術”と“非恋愛芸術”と

――“芸術の区分”には、あまり意味がない。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 その見解を変えるつもりはありません。 が、強いていえば、対象による区分になら、多少なりとも意味があるかもしれません。 つまり、扱う主題の違いによって、芸…

“芸術の区分”には、あまり意味がない

――若いうちは芸術よりも学問のほうが大切だ。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 裏を返せば、 ――若くなくなったら学問よりも芸術のほうが大切である。 ということです。 学問には「理解しようとあらゆる努力を払う者には必ず理解される」と…

若いうちは芸術よりも学問で

学問には、 ――理解しようとあらゆる努力を払う者には必ず理解される。 という性質があるのに対し―― 芸術には、 ――そもそも理解できる者にしか決して理解されえない。 という性質があると考えられています。 この「理解しようとあらゆる努力を払う者には必ず…

哲学は実学か実学でないか

――哲学は非実学である。 と述べた上で、 ――ただし、哲学を実学と捉える向きもある。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 ――いったい、どっちなんだ! と怒られたかもしれませんが――(笑 僕は、 ――結局は、実学の定義の問題であろう。 と考え…

「哲学・神学・医学・法学」の区分にも意味はある

――「哲学・神学・医学・法学」の区分を使い勝手が良いとは思わない。 と、おとといの『道草日記』で述べました。 それは、その通りなのですが―― この区分に何の意味もないとは思っておりません――これにはこれで、それなりに、 (意味はある) と思っておりま…

哲学・神学・医学・法学の苦悩は、座学ではなく、実践に

――「人文科学・社会科学・自然科学」の区分は便宜的である。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 医学に携わっていると、この区分は、本当に、 (どうでもいい) と感じられます。 例えば、医学を実践していて、深刻な問題に直面したときに、…

「人文科学・社会科学・自然科学」の区分は便宜的

いわゆる大学が中世のヨーロッパで産声をあげた頃――学問分野は4つに分かれていたと考えられています。 哲学 神学 医学 法学 の4つです。 これらのうち、「哲学」は、実際には、自由七科のことを指していました――「自由七科」とは、 文法学 修辞学 論理学 …

親の心に余裕がなければ、いいにくいこと

いわゆるマシュマロ・テストに関する近年までの知見を総合すると、 ――子どもに大人が「まず学ばせたい」と思うことは裕福な家庭環境で暮らすことの心地よさである。 という結論――まさに、 ――身も蓋もない結論 に至る、ということを――きのうの『道草日記』で…

身も蓋もない結論

――子どもに大人が「まず学ばせたい」と思うことは人文科学である。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 ――子どもに大人が「まず学ばせたい」……云々 から真っ先に思い浮かぶことは、 ――マシュマロ・テスト でしょう。 1960年代から1970年代に…

子どもに大人が「まず学ばせたい」と思うこと

――人文科学に“誤読の自由”はない。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 このことを本当の意味で体得することが―― いわゆる学校教育の終着点ではないかと、僕は思っています。 学校教育は、人文科学に偏っています。 少なくとも日本ではそうで…

人文科学に“誤読の自由”はない

――人文科学者は一対一の対話を得意とする。 といった主旨のことを、きのうの『道草日記』で述べました。 一対一の対話で最も大切なことは、 ――相手の発言に対し、的確に応える。 ということです。 相手の発言の真意を掴み、その真意を踏まえた上で、応える――…

自然科学者や社会科学者は座談――人文科学者は……

人文科学の本質は、 ――過程の「なぜ?」 にある、ということを――6日前の『道草日記』で述べました。 この“過程の「なぜ?」”というのは―― 要は人の気持ちや考えのことです。 ――なぜ、そんな気持ちに相手がなるのかを思え。 とか、 ――なぜ、そのようにお考え…

痴話ゲンカの焦点はハッキリするはず

――恋愛小説は、数学のようなものであり、実際の恋愛は、自然である。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 この喩えは、 (けっこう悪くない) と思っています。 以下―― 半分は冗談です。 例えば、物理学などでは―― 自然の振る舞いを数学で表…

恋愛小説は、数学のようなもの

――数学は人文科学である。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 そのように、少なくとも僕は考えていますので―― 例えば、優れた恋愛小説を読んでいるときには、まるで数学の問題の鮮やかな答案を読んでいるかのような錯覚を感じることがありま…

数学は人文科学である

――人文科学は、多少なりとも虚構的にならざるをえない。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 ここでいう「虚構的」とは、 ――「数学は虚構的である」という意味での「虚構的」である。 ということも、述べました。 ――数学は人文科学である。 …

人文科学は虚構的である

人の営みには、その営みを行っている人の考えや気持ちというものが、常に介在している、ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 よって、人の営みに直に関わっている事物を対象とする人文科学では、その営みを行っている人の考えや気持ちを浮き…

「なぜ?」「なぜ?」「なぜ?」と訊き遡る

人文科学の本質は、 ――過程の「なぜ?」 にある、ということを――きのうの『道草日記』で述べました。 これは、人文科学の領域では、 ――なぜ? ――なぜ? ――なぜ? と訊き遡(さかのぼ)っていくことで、真理に近づけるからです。 例えば、 ――人に強い。 とか…

人文科学の本質――過程の「なぜ?」

――人に強い。 とか、 ――人に強くなる。 とかいったいい方が気になっている、ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 この「人に強い」といういい方を僕が強く意識するようになったのは、2013年に作家の佐藤優さんがご著書『人に強くなる極意』を…

「人に強い」が気になっている

――人に強い。 とか、 ――人に強くなる。 とかいったいい方がありますね。 ここ10年くらい、ずっと気になっています。 ――気になっている。 の真意は、 (いわんとすることは何となくわかるのだが、では、具体的に、どんな状態が「人に強い」という状態なのか――…

社会科学を学ぶ際には、かつての博物学のように

今日の社会科学は――誤解を恐れずに、あえて大雑把にいえば――今日の自然科学にとっての昔日の博物学のようではないか、と―― 僕は思っています。 きのうまでの『道草日記』で、社会科学と自然科学との境界が無くなることの大切さを繰り返し述べてきましたが―― …

社会科学と自然科学とは理想論的には区別されないのがよい

社会科学と自然科学との境界が完全に取り払われるときに、社会科学でも自然科学でもない、ただの科学が誕生する―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 今さらながらに、いいそえますと――今日でも、たんに「科学」といういわれ方はあります。 …

社会科学は、いま過渡期にある

――これからの社会科学は、自然科学的であるのがよい。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 その真意は、 ――これからの社会科学は、再現性と反証可能性とが当たり前に求められる学問――自然科学のような学問――になるのがよい。 ということです…

再現性や反証可能性を欠いているようでは

「心理歴史学」には虚構の学問分野と現実の学問分野との2つがあって、後者には――つまり、「心理歴史学」と呼ばれる現実の学問分野には――歴史上の人物に対する精神分析を試みる一派があるらしいことを――きのうの『道草日記』で述べました。 また、精神分析に…

歴史上の人物に対する精神分析が主流を占めることは

虚構の学問分野としてではなく、実際の学問分野――あるいは、実際の学問分野の候補――としての心理歴史学があり、それは、 ――国家などの大規模な人間集団について、その集団の振る舞いを規定すると考えられる集団心理を想定し、その心理を心理療法的に分析する…

もう一つの心理歴史学(Psychohistory)

――心理歴史学(Psychohistory) といえば、きのうの『道草日記』で述べた通り、ふつうは20世紀アメリカの作家アイザック・アシモフが残した虚構上の学問分野を指しますが―― そうではない「心理歴史学(Psychohistory)」も、英語圏には存在するようです。 こ…

「政治史」といえば、ふつうは「歴史」なので

――神経政治史学 が産声をあげたならば―― 例えば、どうすれば日比谷・焼き打ち事件を未然に防げたか、などの空想さえも学問的な考察となりうることを―― きのうの『道草日記』で述べました。 ところで―― ふつう「政治史」といえば「歴史」です。 歴史には、も…

第二、第三の日比谷・焼き打ち事件を防げるかもしれない

僕のいう「神経政治史学」で扱われうる例として、1905年の日本の日比谷・焼き打ち事件を、きのうの『道草日記』で挙げました。 史料をもとに、当時の日本の民衆一人ひとりの“脳の神経模様”の集合をコンピュータ上に再現した上で、この事件をどうすれば当時の…