「心理歴史学」には虚構の学問分野と現実の学問分野との2つがあって、後者には――つまり、「心理歴史学」と呼ばれる現実の学問分野には――歴史上の人物に対する精神分析を試みる一派があるらしいことを――きのうの『道草日記』で述べました。
また、精神分析には、再現性や反証可能性に乏しいという指摘があることについても触れました。
が――
「再現性」や「反証可能性」については、きのうの『道草日記』では説明をしませんでした。
「再現性」とは、
――いつ、だれが、どこでやっても、同じ結果・結論が得られるということ
で、「反証可能性」とは、
――間違っていることが証明されるための条件が明示されているということ
です。
いずれも、自然科学であることを保証するための必要条件と考えられています。
つまり、
という指摘は、
――精神分析は自然科学的ではない。
という主張に等しいのです。
ところで――
昨今の『道草日記』で、なぜ、こんな話――心理歴史学に2種類あることや精神分析が非自然科学的であることなどについての話――をしているかというと――
それは、
――社会科学とは何か。
について考えるための材料となりそうだからです。
在韓アメリカ軍が撤退をしたら、後世からみて、日本史上の転換点となるような事態が続発するのではないか、ということを――9月18日の『道草日記』で述べました。
そして、そうした社会環境の激変が昨今の報道内容から予想されうる今、
――社会科学とは何か。
について考え抜く雰囲気が大切である、ということを――9月22日の『道草日記』で述べました。
そのようにして考え抜いた結果、例えば、「心理歴史学」という言葉に辿り着いたわけです。
現時点での僕の結論は、
――社会科学は自然科学的であるのがよい。
です。
その理由は、
――社会とは、「ヒト」という生物種に固有の生態系である。
とみなせること、ひいては、
――社会科学に生物種としての人(ヒト)の属性を積極的に導入するのがよい。
と考えられることです。
社会科学に「ヒト(生物種としての人)」という概念を持ち込む以上、社会科学は自然科学的である必要があると、僕は考えています。
以上の主張は、社会科学が生物学の一分野に押し込められることを意味するのではありません。
生物学は自然科学の一分野ではありますが、生物学の枠組みは、9月23日の『道草日記』で触れたように、“袋小路”的な困難性を抱えているため、社会科学にとっては窮屈です。
が、社会科学を生物学の枠組みに押し込めてはならないという主張と、社会科学は自然科学的である必要がないという主張とは、まったく違います。
社会科学は、生物学の枠組みに押し込めてはなりませんが、自然科学の枠組みには入っていくほうがよいと、僕は思っています。
自然科学の枠組みとは何か――
それは、
――再現性
と、
――反証可能性
との2つです。
これからの社会科学には、再現性や反証可能性が欠かせない――本当は、これまでの社会科学にも、再現性や反証可能性は必要であったのですが、実際には、必ずしも、そうではありませんでした。
これからは、再現性や反証可能性が、いよいよ必要になってくる――再現性や反証可能性を欠いているようでは、話は前に進まない――そう僕は考えています。