2020-01-01から1ヶ月間の記事一覧
――心は、脳に入ってくる感覚に「現在」をあてがい、脳に残された“感覚の痕跡”に「過去」をあてがい、脳に生じる“感覚の模型”の一部に「未来」をあてがうことで、「時間」の概念を作り出している。 と、きのうの『道草日記』で述べました。 また、 ――感覚の痕…
――23世紀や24世紀の大脳生理学は、どんなものだろう? ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 そんなふうに未来へ思いを馳せることができるというのは―― よく考えたら、不思議なことです。 1月8日以降―― 僕は『道草日記』で、 ――「時間」の概念…
――大脳の生理 について、これまでにわかっていることは、 ――神経の生理 について、17世紀までにわかっていることと同じくらいである―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 解剖学者のガルヴァーニによって神経と電気信号とが結びつけられたの…
――神経生理学は産声をあげられたが、大脳生理学は産声をあげられずにいる。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 その理由は、おそらく―― “神経の生理”に比べたら、僕らは、“大脳の生理”について、ほとんど何も知らないに等しいからです。 ――…
――神経の生理はともかく、大脳の生理は殆(ほとん)どわかっていないので、神経生理学は始められているが、大脳生理学は始められていない。 といった主旨のことを―― きのうの『道草日記』で述べました。 では―― 裏を返すと―― 何がわかれば大脳生理学が始めら…
――物理は、ヒトの脳の生理の一要素に過ぎないかもしれない。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 こういう極端なことを述べると―― 思い出す言葉があります。 ――大脳生理学 という日本語です。 ――大脳 は、 ――脳 の一部です。 ふつうは、 ――…
――生理学による物理学への嫁入り(あるいは、婿入り) というと―― 何となく、 ――物理学が主、生理学が従―― という印象を与えるかもしれません。 実際には、 ――生理学による物理学への嫁入り といういい方に触れる前から―― そのような印象を持っている人が圧…
――生理学は医学の王――ないしは、女王――といえるかもしれないが、その王権は、少なくとも黎明期には、政教分離が不十分な原始的な権威に依っていた。 と考えられることを―― きのうの『道草日記』で述べました。 生理学が今日的な意味で認識され始めていくのは…
――生理学は本当に自然科学である。 というときに、生理学が医学の一分野であることを忘れないほうがよい、ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 つまり、今日の生理学は明らかに自然科学の一分野であるけれども、かつては、そうではなかった――…
――生理学は本当に自然科学なのか。 ということを―― きのうの『道草日記』の末尾で問いました。 最初に述べておくと―― 今日、生理学は自然科学とみなされています。 現在、生理学の研究に携わっている人たちで、自分たちを自然科学者ではないと思っている人は…
――生理学は自然科学の女王である。 といういい方には―― 色々と難点があるように思います。 第一に―― 物理学を、 ――王 に喩えるのはよいとして―― それを基に、生理学を、 ――女王 に喩えるのは、はたして妥当なのか―― 実は―― 僕自身、「生理学は自然科学の女王…
――生理学は自然科学の女王である。 といういい方が妥当かどうか、との問いかけを―― きのうの『道草日記』で述べました。 もちろん―― このいい方は、 ――物理学は自然科学の王である。 といういい方が基になっていますから―― まずは、その基になっているいい方…
――最終的な興味は「生理」に向かう。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 もちろん―― これは、医学の領域に限った傾向として述べています――決して、あらゆる学問の領域に共通する傾向として述べたわけではありません。 ところで―― ――正常な…
――病理から生理へ や、 ――解剖から生理へ の発想について―― きのうまでの『道草日記』で触れました。 要するに―― 最終的な興味は、 ――生理 に向かう―― ということです。 ――生理 とは、つまり、 ――正常な体の仕組み です。 あるいは、 ――「『生きている』とは…
――病理から生理へ の発想について―― きのうの『道草日記』で述べました。 ここでいう「病理」とは、 ――病気の仕組み くらいの意味で、「生理」とは、 ――正常な体の仕組み くらいの意味です。 医学の分野に、 ――病理学 や、 ――生理学 というのがありますが―― …
“感覚の痕跡”が、痕跡として残されず、感覚に近い形で残されることが、 ――幻覚 の病因ではないか、と―― おとといの『道草日記』で述べました。 このように、 ――幻覚の病理 から、 ――感覚の生理 を考えるような発想は―― ヒトの生命科学・生物学では、それなり…
――“感覚の痕跡”の形成が不十分であることが幻覚の病因ではないか。 といった主旨のことを―― きのうの『道草日記』で述べました。 ――“感覚の痕跡”の形成 とは、 ――脳によって受け入れられた感覚が、感覚のままでなく、“感覚の痕跡”となって、脳に残されること…
――「意識の働き」とは、感覚が“感覚の痕跡”と絶え間なく照らし合わされ続け、何らかの相関性が見出され続けることではないか。 との考えを―― 3日前の『道草日記』で示しました。 この考えでは、 ――感覚は、脳に受け入れられると、その痕跡を脳に残す。 とい…
――「意識」と「自我」とは密接にかかわっている。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 すなわち、 ――“神経細胞によって伝達される信号”に関し、“感覚の痕跡”に由来する信号が集約され、その集約された信号が、意識によって、感覚に由来する信…
――感覚が“感覚の痕跡”と絶え間なく照らし合わされ続け、何らかの相関性が見出され続ける際に、その相関性を見出している主体こそが、意識である。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 ただし―― この場合の「相関性」とは、結局は、 ――“神経…
いわゆる「意識」について―― 12月7日以降の『道草日記』で述べてきました。 「意識」の明確な定義が存在しないこと―― ――「意識」とは「心が眠っていない状態」である。 という何となくの定義なら存在すること―― また、 心 = 意識 + 無意識 の図式が成り立…
――意識の働き の定義は、少なくとも、 ――時間の経過 の定義の前に済ませておくのがよい―― ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 このことに留意をするならば―― ――自我 や、 ――自己 の定義も、また、「時間の経過」の定義の前に済ませておくの…
――心は、脳が感覚と“感覚の痕跡”とを選り分けることで、「現在」や「過去」という概念を作り出している。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 一方―― 12月23日以降の『道草日記』で、 ――“現在の感覚”が“過去の感覚”と絶え間なく照らし合わさ…
――脳や心は、精巧な時計ではないものの、現在と過去との区別だけは正確にできる。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 実際には―― 話は逆です。 脳ができるのは――少なくとも一次的にできるのは――感覚と“感覚の痕跡”との区別だけです。 脳が…
意識の働きを、 ――“現在の感覚”が“過去の感覚”と照らし合わされて何らかの相関性が見出され続けるること とみなすことを―― きのうまでの『道草日記』で繰り返し述べてきました。 その前提となっているのは―― 脳や心における時の移ろいです。 脳も心も、現在…
いわゆる、 ――クオリア(qualia) という言葉で表される質――「らしさ」――を形容しようと思ったら、 ――豊かである の一言に尽きます。 赤い苺(いちご)を眺めているときの、あの赤の感じや苺の感じは―― とてつもなく多彩で重厚です。 少なくとも―― 僕自身が…
――クオリア(qualia) の問題は―― 意識の働きを、 ――“現在の感覚”が“過去の感覚”と照らし合わされて何らかの相関性が見出されること とみなすことによって、解決の糸口が得られるかもしれない、ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 どういう…
――“現在の感覚”が“過去の感覚”と照らし合わされて何らかの相関性が見出されることが、意識の働きである。 とみなすことで―― いわゆる、 ――クオリア(qualia) の問題に手がかりをもたらすかもしれません。 この「qualia」という言葉はラテン語です――「quale…
――心の内部で生じる何らかの刺激によって生じている“現在の感覚”が、“過去の感覚”と照らし合わされて何らかの相関性が見出されているときに、自我が自己を認識しているのではないか。 という推量について、おとといの『道草日記』で述べました。 この推量を…
――人は変わる。 と、よくいわれます。 ――あの人は、変わった。 などの述懐は、肯定的なものであろうと否定的なものであろうと、人の世では、しばしば口にされるものです。 ほかならぬ自分とて日々、変わっていきます。 変わるのは、ほかの人だけではありませ…