マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

“感覚の痕跡”の形成

 ――“感覚の痕跡”の形成が不十分であることが幻覚の病因ではないか。

 といった主旨のことを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ――“感覚の痕跡”の形成

 とは、

 ――脳によって受け入れられた感覚が、感覚のままでなく、“感覚の痕跡”となって、脳に残されること

 です。

 

 “感覚の痕跡”の形成は、心にとって不可欠に違いありません。

 

 もし、“感覚の痕跡”の形成が行われなければ――

 心は、時間の経過を全く認識できないはずだからです。

 

 7日前の『道草日記』で――

 僕は、

 ――脳が感覚と“感覚の痕跡”とを選り分ける際に、心は感覚を「現在」ととらえ、“感覚の痕跡”を「過去」ととらえている。

 と述べました。

 

 “感覚の痕跡”の形成が不十分であれば――

 心は、現在と過去との区別をつけられなくなります。

 

 目の前で今、何が起こっているのかということと、先ほど、何が起こったのかということとに区別をつけられなければ――

 心の外部の世界で、生物種の1つとして生き残っていくことは、きわめて困難です。

 

 “感覚の痕跡”の形成は、心にとって、まさに死活問題なのです。

 

 が――

 この“感覚の痕跡”の形成は、言葉で表せるほどに容易ではないでしょう。

 

 感覚が“神経細胞によって伝達される信号”へ還元されうることに留意をすれば――

 “感覚の痕跡”の形成は――

 喩えるなら、

 ――コンピュータ上の動画や音声を、その本質が失われない範囲で、できる限り単純化させて記録すること

 に相当します。

 

 これは――

 容易なことではないでしょう。

 

 信号処理の技術的な問題もさることながら――

 何をもって「動画の本質」とみなすか、あるいは、何をもって「音声の本質」とみなすかが――

 大問題であるように思います。