――「意識の働き」とは、感覚が“感覚の痕跡”と絶え間なく照らし合わされ続け、何らかの相関性が見出され続けることではないか。
との考えを――
3日前の『道草日記』で示しました。
この考えでは、
――感覚は、脳に受け入れられると、その痕跡を脳に残す。
ということが前提となっています。
その痕跡を、
――感覚の痕跡
と呼んでいます。
この“感覚の痕跡”が、痕跡として残されず――
感覚に近い形で残されるのが、
――幻覚
の病因ではないか、と――
僕は考えています。
ここでいう「幻覚」とは、僕らが、ふだん日常会話などで何気なく使う「幻覚」ではなくて――
精神医学で定義される「幻覚」です。
精神医学では、しばしば、
――「幻覚」とは「対象なき知覚」である。
といわれます。
幻覚は、ある種の心の病気に頻出する症状です。
この症状に苦しむ人は、存在しないはずの事物を知覚し、その生々しい感覚に悩まされます。
12月18日の『道草日記』で――
僕は、「知覚」について、ひとまず以下のような取り決めを行いました。
すなわち――
狭義の「知覚」は、
――心の外部の世界から入ってくる何らかの刺激を感覚として受け入れ、それに意味を見出すこと
であり――
広義の「知覚」は、
――心の外部の世界から入ってくる何らかの刺激および心の内部で生じる何らかの刺激を感覚として受け入れ、それに意味を見出すこと
である、と――
この取り決めに沿えば――
「幻覚」すなわち「対象なき知覚」とは、
――心の外部の世界から何も刺激が入ってこず、かつ心の内部で何も刺激が生じていないのに、感覚の意味が見出されること
となります。
刺激がないのですから、本来、感覚もないはずです。
が、なぜか感覚の意味が見出されてしまう――
その感覚の意味は何に由来しているのか――
僕は、
(“感覚の痕跡”が、きちんと痕跡化されずに、感覚らしきものとして残ってしまうことに由来しているのではないか)
と考えます。
すなわち――
本来、感覚は、すべて痕跡化され、“感覚の痕跡”として脳に残される――
が、ある種の心の病気にかかると――
感覚は、十分には痕跡化されず、感覚に近い形で脳に残されてしまう――
その“残された感覚”に意識の働きが及ぶときに――
心は幻覚を体験する――
そういうことではないかと思うのです。