――「意識」と「自我」とは密接にかかわっている。
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
すなわち、
――“神経細胞によって伝達される信号”に関し、“感覚の痕跡”に由来する信号が集約され、その集約された信号が、意識によって、感覚に由来する信号へと照会され、信号としての相関性が検出される結果、どういうわけか、自我が生じる。
と――
ここでいう、
――どういうわけか
という語句は――
実は、とても大切です。
僕は、自我が作り上げられる仕組みについては、ほとんど何も着想をもっていません。
“感覚の痕跡”に由来する信号が集約され、その集約された信号が、意識によって、感覚に由来する信号へと照会され、信号としての相関性が検出されると、なぜ自我が生じるのか――
僕には、まったく説明できません。
僕が指摘していることは、必要条件にすぎません。
意識や自我の仕組みが満たしているはずの必要条件――「意識」や「自我」の必要条件――です。
必要条件というのは、ときには、どうでもよい条件です。
例えば――
仙台市にいるための必要条件は「宮城県にいる」とか「日本国にいる」ですが、「地球上にいる」も必要条件です。
仙台市にいるかどうかを考えるときに、「地球上にいる」とかいうことは、どうでもよい条件といえます。
「仙台市にいる」という条件に比べ、緩すぎるからです。
緩すぎる必要条件は、どうでもよくなります。
必要条件は、できるだけ緊(きつ)いのがよいのです。
僕が指摘している「意識」や「自我」の必要条件は――
もちろん、
――必要条件として誤っていないかどうか。
が、第一に大切ですが――
――必要条件として適切な緊さをもっているかどうか。
も、同じくらいに大切です。