――感覚が“感覚の痕跡”と絶え間なく照らし合わされ続け、何らかの相関性が見出され続ける際に、その相関性を見出している主体こそが、意識である。
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
ただし――
この場合の「相関性」とは、結局は、
――“神経細胞によって伝達される信号”の相関性
であることに留意が必要です。
例えば、
――苔桃(こけもも)をみたときに得られる感覚に、苺(いちご)をみたときに得られる感覚を重ね合わせる。
というような意味での「相関性」とは、次元が異なります。
もちろん、そのような意味での「相関性」を――
心は、少なくとも最終的には、扱っているはずですが――
僕が、ここで述べているのは、そのような最終的な段階のことではなく、その段階に至るまでに必ず経なければならない段階のことです。
つまり、
――“神経細胞によって伝達される信号”に関し、意識が、感覚に由来する信号と“感覚の痕跡”に由来する信号との間に相関性を見出す結果、心は感覚の意味を理解する。
ということです。
ここでいう「意識」とは――
実は「自我」に他なりません。
おとといの『道草日記』で、
――「自我」とは、“感覚の痕跡”の集積によって脳や心の中に作り上げられる何かである。
と述べました。
その真意は、
――“感覚の痕跡”が集まって何となく自我が生じる。
ということではなく、
――“神経細胞によって伝達される信号”に関し、“感覚の痕跡”に由来する信号が集約され、その集約された信号が、意識によって、感覚に由来する信号へと照会され、信号としての相関性が検出される結果、どういうわけか、自我が生じる。
ということです。
このような意味で――
「意識」と「自我」とは密接に関わり合っています。