マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

2019-12-01から1ヶ月間の記事一覧

自我は“過去の感覚”を基にしている

意識の働きの命題―― すなわち、 ――“現在の感覚”が“過去の感覚”と絶え間なく照らし合わされて何らかの相関性が見出され続けることこそが、意識の働きである。 という命題は―― いわゆる、 ――自我 について、大きな示唆を与えます。 それは、 ――「自我」とは、“…

意識を備えたことでヒトは不利にはならなかった

――意識を備えたことでヒトは有利になった。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 では、 ――意識を備えたことでヒトは不利にはならなかった。 とは、いえるでしょうか。 結論からいうと、 ――現在のヒトの意識の働きをみる限りは、「不利にはな…

意識を備えたことでヒトは有利になった

――ヒトが意識を備えたことで、ヒトにとって、生存上、何か有利なことが起こった、と――もしくは、著しく不利なことは何も起こらなかった、と――考えられる。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 きのうは結論だけを述べました。 きょうは、そ…

意識の働きには進化生物学の説明が必要である

意識のことを真剣に考える上で絶対に外せないことがあります。 それは、 ――意識の働きには、進化生物学的な観点からの十分に納得のいく説明が必要である。 ということです。 現在のところ―― 意識の存在は、人にのみ想定されています。 ――犬や猫などの動物に…

意識に関する“舞台の照明”の比喩が具現化していたもの

意識に関する“舞台の照明”の比喩は、 ――光 が本質であるがゆえに―― 例えば―― 目がみえる人たちの意識について当てはまることのみを導いてしまいがちである―― という弱点を抱えている、と―― 10日前の『道草日記』で述べました。 よって―― もし、意識のことを…

いくつかの興味深い結論

――「意識の働き」とは、“現在の感覚”が“過去の感覚”と絶え間なく照らし合わされて何らかの相関性が見出される続けることである。 という命題からも、意識の3つの性質が導かれることを―― きのうの『道草日記』でお示ししました。 この命題の受け入れると―― …

再び、意識の3つの変化と3つの性質と

意識の3つの変化―― すなわち、 ――意識混濁 ――意識狭縮 ――意識変容 の3つから―― それぞれ意識の3つの性質、 ――清明性 ――広範性 ――均質性 が指摘できることは―― 12月16日の『道草日記』(および、それ以前の『道草日記』)で述べました。 これら3つの性質…

主観と“偽装された客観”との混在を防ぐ

――「意識」は、“現在の感覚”が“過去の感覚”と絶え間なく照らし合わされることによって何らかの相関性が見出され続けることに、深く関わっている。 という主張から、 ――“現在の感覚”を“過去の感覚”と絶え間なく照らし合わせて何らかの相関性を見出すことが、…

「意識の働き」への跳躍

――「知覚」の本質は“神経細胞によって伝達される信号”にある。 ではなくて―― ――「知覚」の本質は「感覚」にある。 と述べるのがよい―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 なぜ「知覚」について述べているかというと―― それは―― 3~4日前の…

客観の偽装の始まり――「神経細胞によって伝達される信号」

――「知覚」の本質は“神経細胞によって伝達される信号”である。 と、きのうの『道草日記』で述べました。 こう僕が述べたことで―― 注意深い方は、すぐに、 ――あ、始まった。 と警戒心を抱かれたことでしょう。 何のことか―― 10日前の『道草日記』で僕が述べた…

「知覚」の本質

――刺激を感覚として受け入れ、それに意味を見出すこと をもって、 ――知覚 とするならば、「刺激」「感覚」「意味」の使い分けが大切であるということを―― きのうまでの『道草日記』で述べてきました。 その上で―― 「刺激」と「感覚」との関わりについて、 ――…

「感覚」と「意味」との関わり

――知覚 を、 ――刺激を感覚として受け入れ、それに意味を見出すこと と取り決める場合には―― 「刺激」や「感覚」や「意味」の言葉の使い分けが大切である―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 その上で、「刺激」と「感覚」との関わりについ…

“広義の「知覚」”と「意識」との関わり

いわゆる“広義の「知覚」”として、 ――心の外部の世界から入ってくる何らかの刺激および心の内部で生じる何らかの刺激を感覚として受け入れ、それに意味を見出すこと を「知覚」と取り決めれば、 ――「知覚の絶え間ない連なり」こそが「舞台で催されるイベント…

「舞台」は何の喩えなのか

意識に関する“舞台の照明”の比喩が抱えている弱点について―― きのうの『道草日記』で述べました。 簡単にいうと―― その比喩は、視覚が関わる意識の一部分を意識の全部と誤解させかねない―― という懸念です。 そうした弱点を十分に承知の上で―― もう少し“舞台…

意識に関する“舞台の照明”の比喩の弱点

――意識の性質は、舞台の照明の機能に似ている。 ということを―― 6日前の『道草日記』から繰り返し述べています。 このことに絡めて―― 意識には、少なくとも3つの性質がある―― すなわち、 ――清明性 ――広範性 ――均質性 の少なくとも3つの性質がある、と―― …

意識の3つの性質に関する言葉の問題

意識の3つの変化―― すなわち、 ――意識混濁 ――意識狭縮 ――意識変容 の3つから、それぞれ意識の3つの性質、 ――清明性 ――可及性 ――均質性 が指摘できることを―― きのうまでの『道草日記』で述べてきました。 このような意識の見方は、わりと一般的であり―― …

意識の均質性

意識には、 ――意識混濁 や、 ――意識狭縮 などの変化から直に推測されうる性質として、 ――清明性 や、 ――可及性 がある、ということを―― 3日前の『道草日記』で述べました。 そして、実際には、もう1つ着目をされる意識の変化があることも述べました。 ――意…

意識の「照明」は「舞台の照明」

――意識の及ぶ範囲の内部において、現在、事物が認識されているか認識されていないかの違い と、 ――意識の及ぶ範囲の内部として事物が認識されているか、外部として認識されているかの違い との間に、何か本質的な区別をつけることができない―― ということを…

「無意識の発見」の中身

――「意識」の十分な定義は存在していないが、“意識と無意識との違い”が存在しているらしいことは、ほぼ確実視されている。 ということを―― 4日前の『道草日記』で述べました。 一方―― きのうまでの『道草日記』で、「意識」の何となくの定義についても述べ…

「意識」や「心」は客観的には語りようがない

――意識 の性質は、舞台を明るく照らす機能に似ている―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 この「舞台」の比喩は、意識が語られる際に、よく用いられるのですが―― 決して意識の全てを表現しえたものではありません。 おそらくは、意識の変化…

“心が眠っていない状態”とは?

――「意識」とは、基本的には“心が眠っていない状態”のことである。 と、きのうの『道草日記』で述べました。 これは、「意識」の定義と呼ぶには、あまりにも漠然としていて、考察や議論のとりかかりにすら、なりにくいのですが―― この命題をとりあえずの踏み…

「意識」の何となくの定義

――意識 と、多くの人たちが何となく呼んでいるものがある、ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 その一方で―― より明確なのは、 ――意識と無意識との違い である、ということも―― きのうの『道草日記』で述べています。 “意識と無意識との違い…

厳密には「無意識の発見」とは記せない

――無意識の発見は僥倖であった。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 ――無意識の発見 というのは、わかりやすさを重視した表現です。 厳密には、 ――“意識と無意識との違い”の発見 と記すのがよいと思っています。 理由は簡単で、 ――意識が十…

無意識の発見は僥倖

――“男女の問題”は無意識の問題に絡めると面白くなる。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 無意識の問題で見過ごせない点は、 ――他者の無意識には、そこそこ気づけるが、自身の無意識には、なかなか気づけない。 という点です。 つまり、自…

“男女の問題”は無意識の問題に絡めると面白くなる

――男性も女性も、自分の性的欲求の対象を意識的には設定できないことから、いわゆる“男女の問題”が始まる。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 つまり、 ――男女の問題 は、心の意識・無意識の問題と密接に関連している―― ということです。 …

“男女の問題”の殆どが端を発しているところ

――男女の問題 の殆(ほとん)どは、 ――男性も女性も、自分の性的欲求の対象を自在に設定できるわけではない。 というところに端を発しているように思います。 ――自分の性的欲求の対象を自在に設定できる。 とは―― 例えば―― ――男性が、向こうから歩いてくる3…

女性は「女」と「人」とを自在に演じ分けられるのか

――礼服と平服とを着分けるように、「男」と「人」とを自在に演じ分けられる男性など、この世に実在しない。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 では―― 女性は、どうなのか―― つまり、 ――礼服と平服とを着分けるように、「女」と「人」とを自…

「男」と「人」とを自在に演じ分けられる男性など

――男性が女性をみるときに、その女性を男性が性的欲求の対象とみなす場合には「女」とみ、みなさない場合は「人」とみる。 という1文を、きのうの『道草日記』に記しました。 そして、この1文から、次の1文、 ――男性が女性を「女」とみるときに、その男性…

「女」か「人」かが保留にされた存在

――男は女性を「女」とみ、人は女性を「人」とみる。 と、きのうの『道草日記』で述べました。 つまり、 ――女性 というのは、 ――「女」か「人」かが保留にされた存在 ということです。 「女性」は、「女」でも「人」でもありうるのだけれども、それらのどちら…

男は女性を「女」とみ、人は女性を「人」とみる

主に「女性」という言葉をめぐって―― ずいぶん言葉遊びに入れ込んでしまいましたが―― きょうの『道草日記』では―― 話をもとに戻します。 なぜ「女性」について考えていたのか―― それは、3日前の『道草日記』で述べたように、 ――相手を女としてみるか人として…