いわゆる“広義の「知覚」”として、
――心の外部の世界から入ってくる何らかの刺激および心の内部で生じる何らかの刺激を感覚として受け入れ、それに意味を見出すこと
を「知覚」と取り決めれば、
――「知覚の絶え間ない連なり」こそが「舞台で催されるイベント」である。
といえそうであることを――
きのうの『道草日記』で述べました。
本当に、そのようにいえるのか、ということについては――
もう少し慎重に考えなければなりません。
“広義の「知覚」”が「意識」とどのように関わっているのかをもう少し精緻に考えてみましょう。
いま「知覚」を「心の外部の世界から入ってくる何らかの刺激および心の内部で生じる何らかの刺激を感覚として受け入れ、それに意味を見出すこと」と取り決めていますが――
この「知覚」をさらに簡単に表してしまうと、
――刺激を感覚として受け入れ、それに意味を見出すこと
となります。
ここでいう「刺激」や「感覚」や「意味」といった言葉を、僕らは、どのように使い分けるべきなのか――
その差異を曖昧にしたままでは、“広義の「知覚」”と「意識」との関わりを精緻に考えることはできないでしょう。
まずは「刺激」と「感覚」との関わりについて考えます。
「刺激」とは、感覚を引き起こす原因のことです。
いま、あえて「心の外部の世界から入ってくる何らかの刺激」に限って考えます。
「刺激」の例として挙げられるのは、光の照射や音の発生です。
つまり、心の外部の世界――おそらくは、体の外側の自然界――で起こる現象が「刺激」なのです。
それら現象が目や耳などの感覚器官を通して体に取り込まれると感覚が生じます。
もう少し具体的にいえば、
――刺激が神経細胞によって伝達される信号に置き換えられて感覚になる。
ということです。
以上は、あくまで「心の外部の世界から入ってくる何らかの刺激」に限っていえることです。
「心の内部で生じる何らかの刺激」については、別に考える必要があります。
この場合の「刺激」というのは、定義上その「刺激」が心の内部で生じることから、おそらくは脳で生じている現象と考えられます。
ここで、脳が神経細胞の組織――秩序のある塊――であることを考え併せますと、「心の内部で生じる何らかの刺激」というのは、すでに“神経細胞によって伝達される信号”に置き換えられているはずです。
その意味で、「心の内部で生じる何らかの刺激」というのは「感覚」と同質なのですが、この「刺激」が原因となって別の感覚を引き起こすという意味では、「心の外部の世界から入ってくる何らかの刺激」と同質なのです。
以上をまとめると、
――刺激は感覚の原因であり、感覚は刺激の結果である。
といってよいでしょう。
「感覚」と「意味」との関わりについては、あす――