意識に関する“舞台の照明”の比喩が抱えている弱点について――
きのうの『道草日記』で述べました。
簡単にいうと――
その比喩は、視覚が関わる意識の一部分を意識の全部と誤解させかねない――
という懸念です。
そうした弱点を十分に承知の上で――
もう少し“舞台の照明”の比喩で意識のことを考えてみましょう。
3日前の『道草日記』で――
意識に関する“舞台の照明”では「舞台」が何の喩えであるかはわからない、と――
述べました。
他方――
「観客」が自我の喩えであることや、その「観客」および「観客席」を含めた「舞台の装置」の全部が心の喩えであることにも触れました。
「舞台」は何の喩えなのか――
この問いに答えるのが難しいのは、「舞台」を「舞台で催されるイベント」から切り離しているからです。
――「舞台で催されるイベント」は何の喩えなのか。
という問いであれば、わりと簡単に答えられます。
それは、
――知覚の絶え間ない連なり
です。
ここでいう「知覚」は、広い意味で用いています。
狭い意味での「知覚」は、
――心の外部の世界から入ってくる何らかの刺激を感覚として受け入れ、それに意味を見出すこと
です。
この場合の「刺激」に加えて――
例えば、「思考の過程・結果」や「記憶の想起」「想像」「感情」なども知覚の対象に含めるのです。
つまり、
――心の外部の世界から入ってくる何らかの刺激および心の内部で生じる何らかの刺激を感覚として受け入れ、それに意味を見出すこと
をもって、広い意味での「知覚」とみなす、ということです。
このような「知覚」を考えれば、
――「知覚の絶え間ない連なり」こそが「舞台で催されるイベント」である。
ということができそうです。