――「知覚」の本質は“神経細胞によって伝達される信号”にある。
ではなくて――
――「知覚」の本質は「感覚」にある。
と述べるのがよい――
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
なぜ「知覚」について述べているかというと――
それは――
3~4日前の『道草日記』で述べたように――
「知覚」について――厳密には、“広義の「知覚」”について――
――心の外部の世界から入ってくる何らかの刺激および心の内部で生じる何らかの刺激を感覚として受け入れ、それに意味を見出すこと
との取り決めをすれば、
――「知覚の絶え間ない連なり」こそが「舞台で催されるイベント」である。
といえそうであるから――
です。
この“舞台で催されるイベント”に“照明”を当たる機能が、意識の性質に似ているのでした。
つまり、
――意識は“知覚の絶え間ない連なり”に“照明”を当てている。
とみなすことができます。
一方――
おとといの『道草日記』では、「知覚」は「感覚」を用いて以下のように表せることを述べました。
すなわち、
――「知覚」とは、“現在の感覚”が“過去の感覚”と照らし合わされることによって何らかの相関性が見出されることである。
と――
……
……
以上を踏まえますと――
「意識」は「感覚」を用いて以下のように表せます。
すなわち、
――「意識」は、“現在の感覚”が“過去の感覚”と絶え間なく照らし合わされることによって何らかの相関性が見出され続けることに、深く関わっている。
と――
……
……
はたして――
どのように深く関わっているのでしょうか。
……
……
最も単純な答えは――
以下の通りです。
すなわち、
――“現在の感覚”を“過去の感覚”と絶え間なく照らし合わせて何らかの相関性を見出すことが、意識の働きである。
と――
もちろん、
――「意識」は、“現在の感覚”が“過去の感覚”と絶え間なく照らし合わされることによって何らかの相関性が見出され続けることに、深く関わっている。
という主張から、
――“現在の感覚”を“過去の感覚”と絶え間なく照らし合わせて何らかの相関性を見出すことが、意識の働きである。
という主張までには、大きな隔たりがあります。
この隔たりを思い切り跳び越えようとしていることに――
僕らは十分に敏感でなくてはなりません。
続きは、あす――