――「意識」は、“現在の感覚”が“過去の感覚”と絶え間なく照らし合わされることによって何らかの相関性が見出され続けることに、深く関わっている。
という主張から、
――“現在の感覚”を“過去の感覚”と絶え間なく照らし合わせて何らかの相関性を見出すことが、意識の働きである。
という主張に向けての思いっきりの“跳躍”を――
きのうの『道草日記』で試みました。
この「意識の働き」への跳躍は、たぶん、
――勇み足
と評されるに違いないと思いますが――
少なくとも――
こうした“跳躍”を叩き台にして意識を研究していこうという発想には、何がしかの意義を見出せるように思います。
ただし――
うるさいことをいえば――
このような発想自体が、すでに主観と“偽装された客観”との混在の始まりになってしまっていることに留意が必要です。
――“現在の感覚”を“過去の感覚”と絶え間なく照らし合わせて何らかの相関性を見出すことが、意識の働きである。
といってみたところで――
“現在の感覚”も“過去の感覚”も、しょせんは、
――それら感覚は互いに照らし合わされうる。
という前提から、
――それら感覚は、結局は信号に――例えば、“神経細胞によって伝達される信号”のようなものに――還元されうる。
という前提が導かれますから――
ここにあるのは、まぎれもなく“偽装された客観”であり――
しかも――
その相関性を見出すのは、あきらかに、
――超自然めいた存在
である「自我」という名の主観ですから――
主観と“偽装された客観”とが見事に混在してしまっているのですね。
が――
そういう込み入った話は措くとして――
……
……
きのうの『道草日記』で述べた“「意識の働き」への跳躍”がもたらす命題――
すなわち、
――“現在の感覚”を“過去の感覚”と絶え間なく照らし合わせて何らかの相関性を見出すことが、意識の働きである。
という命題は、
――「感覚の相関性」という概念だけで意識の本態を説明しよう。
という発想に基づいています。
「感覚」が「神経細胞によって伝達される信号」であれば「感覚の相関性」は「信号の相関性」とみなせます。
そして――
対象が“信号の相関性”であるならば、現在の人類が知っている思考・演算の原理で十分に評価や判定を下すことができる――
つまり、“超自然めいた存在”である「自我」という名の主観を介在させなくても、“偽装された客観”のみによって、意識の働きを説明しうる――
もちろん――
そのような“偽装された客観”から、なぜ“超自然めいた存在”である主観が生まれるのか、という謎は、
――永遠に説明しえない。
という嫌いは残りますが――
主観と“偽装された客観”とが混在するよりは、はるかに良いといえます。