2020-10-01から1ヶ月間の記事一覧
――清の聖祖・康熙(こうき)帝は外交や内政に十分な業績を残し、人心を落ち着かせたことから、中国史上最高の名君と評される一方、その気質には暗さが感じられる。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 その“暗さ”とは何か―― …… …… 一つは、 …
――清の君主について、初代ヌルハチや二代ホンタイジには気質に明るさが感じられるが、順治(じゅんち)帝すなわち三代フリン以後の三代(三代、四代、五代)には気質に明るさが感じられない。むしろ、暗さが感じられる。 ということを―― おとといの『道草日…
清の世祖・順治(じゅんち)帝が、大功のあった叔父ドルゴンを、 ――皇帝である私をないがしろにした。 という理由で、死後に激しく貶めたことについて―― きのうの『道草日記』で述べました。 このように述べると―― 順治帝が暗君であるかのようですが―― そん…
――清の太宗ホンタイジは、“憂・勇”領域ではなく、“喜・怯(きょう)”領域に配される。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 つまり―― 清の君主についていえば―― 初代の太祖ヌルハチは、“勇・喜”領域に配され―― 二代の太宗ホンタイジは、“喜・…
――“感情の分布図”の“憂・勇”領域に配される人物として、清の太宗ホンタイジはどうか。 ということを―― きのうの『道草日記』で問いました。 結論からいうと―― ホンタイジは、“憂・勇”領域ではなく、“喜・怯(きょう)”領域に配される人物ではなかったか、と―…
――“感情の分布図”の“憂・勇”領域に配される人物とは? ということを―― おとといの『道草日記』から問うています。 “憂・勇”領域に配されるのですから、 ――勇みやすい気質 をもっていることが必要です。 そういう人物は、日本列島よりは、“満州地域”に多そう…
いわゆる、 ――満州地域 の人々が、 ――比較的、冷静で楽観的な発想 の人々であることは―― 10月6日の『道草日記』で述べました。 “満州地域”の人々は―― 勇んで猛ることはあっても―― 猛り狂うことはなく―― 最終的には、遼河流域から黄河流域に入り、次いで、長…
――“感情の分布図”の第4象限に配されるような人物とは、いったい、どんな人物なのか。 ということを―― きのうの『道草日記』で問いました。 ――感情の分布図 の第4象限とは、 ――“憂・勇”領域 です。 この領域に配される人物とは、 ――“憂気”を含みつつも、勇…
――“感情の分布図”は簡易な平面図かもしれない。 ということを―― 9月24日の『道草日記』で述べました。 具体的には―― 横軸に、情動軸としての“怯(きょう)勇”軸、 ←怯―――勇→ をとり―― 縦軸に、気分軸としての“憂・喜”軸、 ←憂―――喜→ をとることによって描け…
――豊臣秀吉は喜気が強く、徳川家康は喜気が強くなかったので、“ニコポン”か“ボヤポン”かの違いが生じた。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 では―― 二人に共通点はなかったかというと―― そんなことはなくて―― …… …… 共通点は、 ――どちらも“…
――豊臣秀吉は“ニコポン”であったが、徳川家康は“ボヤポン”であった。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 念のために、繰り返しますと―― 「ニコポン」というのは、 ――ニコニコと笑いながら目下の者の肩にポンポンと手を置きつつ、親し気な言…
――豊臣秀吉は日本人の指導者に向いていた。 という話を―― ここ3~4日の『道草日記』で繰り返し述べています。 その豊臣秀吉よりも、さらに日本人の指導者に向いていたと考えられるのが―― 徳川家康です。 豊臣秀吉は、 ――ニコポン でした。 徳川家康は、おそ…
――ニコポンの名手 として―― その語源となった桂太郎以外にも―― 豊臣秀吉がいたことについて―― きのうの『道草日記』で述べました。 ――ニコポン の効能は、ほぼ1つといってよいでしょう。 ――恐怖の軽減 です。 とくに、恐怖の対象である当の相手から、“ニコ…
――豊臣秀吉は日本人の指導者に向いていた。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 豊臣秀吉が―― 例えば、織田信長と比べて―― どういった点が、日本人の指導者として、優れていたか―― …… …… ――ニコポン という言葉があります。 人心掌握実の1つ…
――織田信長が本能寺で明智光秀に殺されていなければ、日本はどうなっていたか。 という問いについて、きのうの『道草日記』で述べました。 そして―― この問いは、それほど興味深くはない、ということも述べました。 ――本能寺で明智光秀に殺されなくても、い…
――豊臣秀吉は日本人らしかったが、織田信長はそうではなかった。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 より具体的にいえば、 ――織田信長は不安を感じやすい体質ではなかった。 ということです。 …… …… 織田信長については―― しばしば、 ――織田…
豊臣秀吉による朝鮮出兵のことを述べているつもりが―― いつの間にか織田信長のことを述べていました。 なぜ織田信長のことを述べたくなったかというと―― 4日前の『道草日記』で、 ――豊臣秀吉だけでなく、その側近たちの多くも、喜気の強い人物であったろう…
織田信長は、豊臣秀吉と同じく、喜気の強い人物であったが―― それだけではなくて、 ――比較的、冷静で楽観的な発想 の持ち主でもあった―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 豊臣秀吉との違いは何か―― 端的にいうと、 ――勇みやすさ の有無で…
豊臣秀吉も、その側近たちも、喜気の強い人物であったのではないか―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 豊臣秀吉と同じ時代を生きた歴史上の人物で―― 少なくとも、もう一人―― 喜気が強かったと思われる人物がいます。 織田信長です。 喜気…
――豊臣秀吉も、その側近たちも、喜気が強かったのではないか。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 秀吉個人が喜気の強い人物であったろうことは、ともかく―― なぜ、その側近たちも喜気の強い人物たちであったろうと、いえるのか―― …… …… そ…
16世紀終盤の日本が中国の全土を支配下に収めようとしたのは―― 当時の政権の長・豊臣秀吉の個性によるところが大きかったといえる―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 そして―― その「個性」とは、 ――モウロク とか、 ――誇大妄想 とかいっ…
――16世紀終盤の日本の試みを、12世紀の金や17世紀の清の試みと比べるのは、そんなに簡単ではないが、意義はある。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 12世紀の金や17世紀の清――つまり、17世紀以前の“満州地域”の人々――が中国の全土を支配下…
中国の全土を支配下に収めようとした試みについて―― 20世紀序盤の日本は、12世紀の金や17世紀の清とは違っていた―― ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 もちろん―― 17世紀以前と20世紀序盤とを単純に比べることはできません。 行軍や輸送を…
いわゆる、 ――満州地域 の人々は、 ――比較的、冷静で楽観的な発想 の持ち主である―― ということを、ここ3日ほどの『道草日記』で述べてきました。 では、 ――日本列島 の人々はどうなのか、というと―― ――比較的、熱烈で悲観的な発想 の持ち主である―― と、僕…
いわゆる、 ――満州地域 で12世紀に興った金と17世紀に興った清とでは―― その後の顛末が、かなり違っています。 金は中国の北半分――黄河流域――を支配下に収めましたが―― 100年ほどで瓦解をしました。 清は中国の全土を――黄河流域も長江流域も――支配下に収めた…
12世紀に金を興した“満州地域”の人々は―― 勇んで猛ることはあっても―― 猛り狂うようなことはなかった―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 こう述べると、 ――なぜ「猛り狂うことはなかった」といえるのか。 と訝る向きも出てくるでしょう。 …
いわゆる、 ――満州地域 のような広大な“出口”のある地域にとどまりつづける人たちの発想について―― きのうの『道草日記』で述べました。 それは―― 一言でいえば、 ――冷静かつ楽観的な発想 です。 おそらくは―― 不安の感受性を高める遺伝子をもっていない人た…
いわゆる、 ――満州地域 は―― 朝鮮半島や日本列島と違って、 ――“出口”も“入口”も広大―― である―― ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 “満州地域”の人々の営みは、 ――遼河文明 に端を発していると考えられています。 ――遼河 とは、“満州地域”の…
――日本列島には“入口”はあっても“出口”がなかったのではないか。 ということを―― きのうの『道草日記』で述べました。 ここでいう「入口」とは、 ――日本列島に来ようとする流民・移民の通り道 で、「出口」とは、 ――日本列島を去ろうとする流民・移民の通り…
――日本人は、深刻な疫病や戦禍による人口の激減をほとんど経ていないので、不安の感受性を高める遺伝子をもっている人の割合が、外国人と比べ、有意に高いのではないか。 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。 が、 ――ちょっと腑に落ちない感じ…