マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

誰もが共感のできる猛りであったかどうか

 ――16世紀終盤の日本の試みを、12世紀の金や17世紀の清の試みと比べるのは、そんなに簡単ではないが、意義はある。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 12世紀の金や17世紀の清――つまり、17世紀以前の“満州地域”の人々――が中国の全土を支配下に収めようとした動機は、

 ――安全保障

 でした。

 黄河流域や長江流域の政権が、たびたび“満州地域”に介入をし、独立の政権が打ち立てられることのないように監視をしていました。

 独立の政権が打ち立てられた後は、しばしば、その秩序を乱し、壊そうとしました。

 

 これに我慢ができなくなって――

 “満州地域”の人々は、黄河流域へ飛び出したのです。

 

 ――やりやがったな! 徹底的に叩きのめしてくれる!

 

 それは“満州地域”の人々の猛りでしたが――

 地に足の着いた猛りでした。

 

 “満州地域”の人々の誰もが共感のできる猛りでした。

 

 一方――

 16世紀終盤の日本が中国の全土を支配下に収めようとしたのは――

 当時の政権の長・豊臣秀吉の個性によるところが大きかったといえます。

 

 当初は、

 ――豊臣秀吉が老いて、モウロクしたからだ。

 とか、

 ――豊臣秀吉には誇大妄想の癖があったからだ。

 とかといわれましたが――

 その指摘は当たらないといえます。

 

 本当に「モウロク」や「誇大妄想」であったなら――

 周囲の側近たちが黙ってはいなかったでしょう。

 

 何より、延べ30万人もの大人数の将兵が海を越えて朝鮮半島に渡ることもなかったはずです。

 

 それなりの合理性が――

 豊臣秀吉による朝鮮出兵には(少なくとも豊臣秀吉の側近たちには)少なからず感じられていたはずなのです。

 

 では――

 その「合理性」とは何か――

 

 ……

 

 ……

 

 ――西欧列強による植民地化の予防

 です。

 

 その内実は――

 2019年9月14日の『道草日記』で述べています。

 

 簡単に述べ直すと――

 西欧列強(ポルトガルやスペイン)が中国の全土を支配下に収める前に――

 いち早く自分たちの手で支配下に収め、ひいては日本列島が西欧列強の支配下に収められることを防ごうとした――

 ということです。

 

 この合理性が――

 日本列島に統一政権を打ち立て終えたばかりの豊臣秀吉を大いに猛らせたことは、疑いに難くありません。

 

 ――せっかく一つにまとめ上げたものを、簡単に奪われてなるものか!

 という猛りです。

 

 が――

 その猛りは、地に足の着いたものではありませんでした。

 

 もちろん――

 後世の歴史をみると――

 豊臣秀吉の猛りは全くの的外れ、というわけではありません。

 

 19世紀には、実際に、中国の全土が西欧列強(イギリス)の支配下に収められようとしました。

 

 が――

 19世紀です。

 

 豊臣秀吉の猛りは、ちょっと早すぎました――300年ほど早すぎた――

 

 少なくとも――

 日本列島の人々の誰もが共感のできる猛りではありえなかったのです。