豊臣秀吉が、いわゆる朝鮮出兵によって、明の都を本気で攻め落とそうとしていたことは――
10月9日の『道草日記』で述べた通りです。
その目的は、おそらく、
――西欧列強による植民地化の予防
であったということは――
10月10日の『道草日記』で述べています(実は、それに先立って、2019年9月14日の『道草日記』でも、やや詳しく述べています)。
その目的は――
おそらく、豊臣秀吉およびその側近らの間では共有されましたが――
日本列島の人々の間で幅広く共有されることは、ありませんでした。
喜気の強い豊臣秀吉が、猛烈な速さで思案を巡らせた結果――
政権として、
――中国の全土が西欧列強の手に落ちる前に、余が手に入れねばならない。
と決断を下したことは、決して的外れではなかったのですが――
実際に西欧列強が中国の全土の植民地化を具体的に試みるのは、19世紀になってからです。
豊臣政権の懸念は300年ほど早かったことになります。
では――
この懸念は、“満州地域”の人々の間では、どうであったのでしょう?
やはり幅広く共有されることはなかったのでしょうか。
そして――
それは、“満州地域”の政権の中枢部によっても、やはり同じだったのでしょうか。
つまり――
清の太祖ヌルハチや太宗ホンタイジ、あるいは、世祖フリン――順治(じゅんち)帝――や、その後見ドルゴン、あるいは、聖祖・康熙(こうき)帝以下、“三世の春”の君主らによっても、共有されることはなかったのでしょうか。
……
……
――おそらく、共有されることはなかった。
と、僕は考えます。
理由は、幾つか挙げられます。
一つは、“満州地域”に興った清は、海洋国家ではありえなかったこと――
豊臣秀吉やその側近らが西欧列強の脅威を重くみたのは、日本列島が四方を海に囲まれていたことと大いに関係があるでしょう。
それだけ豊富で良質の情報が、おそらくは、海洋商人らを通じ、日本列島には届けられていた――そして、それが政権の中枢部に届く可能性も高かった――
西欧列強が――当時は、ポルトガルやスペインが――インドやフィリピンなどに交易の拠点を設け、キリスト教という信仰の流布を先触れとして、侵略の機会を虎視眈々と狙っている、との情報は――
日本列島の政権の中枢部に届く可能性が高かったのです。
が――
こうした情報が、“満州地域”の政権の中枢に届けられる可能性は低かったといえます。
まったく海に面していないわけではありませんが――
西欧列強の脅威に関する情報は、それほど多くは届けられなかったでしょう。
それよりも――
陸続きの地域からの脅威――例えば、中国やモンゴル、ロシアの脅威――に関する情報のほうが、圧倒的に多く、かつ重くみられたはずです。
西欧列強がインドやフィリピンなどに交易の拠点を設け、キリスト教の流布を先触れに侵略の機会を狙っているという情報は――
たとえ政権の中枢部に届けられたとしても、顧みられることはなかったでしょう。
“満州地域”の人々にとっては――
西欧列強よりも、中国やモンゴル、ロシアのほうが、はるかに差し迫った脅威でした。