マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

織田信長は喜気が強いだけではなかった

 豊臣秀吉も、その側近たちも、喜気の強い人物であったのではないか――

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 豊臣秀吉と同じ時代を生きた歴史上の人物で――

 少なくとも、もう一人――

 喜気が強かったと思われる人物がいます。

 

 織田信長です。

 

 喜気の強さでいえば――

 おそらくは豊臣秀吉の上をいく人物です。

 

 ……

 

 ……

 

 豊臣秀吉は、若い頃、織田信長の側近でした。

 そして、二人は気が合ったようです。

 

 このことから――

 二人は、ともに喜気の強い人物であったことが、強く示唆をされます。

 

 織田信長に気に入られ、若き日の豊臣秀吉は側近から重臣の地位へと駆け上がりました。

 いわゆる大名格の家来になった後も、織田信長との心理的な距離感は近かったようです。

 

 その二人が、日頃どんなことを話していたのか――

 

 ……

 

 ……

 

 残念ながら――

 豊臣秀吉が築いた政権と同じように、織田信長の築いた政権も――正確には、「織田信長が築きかけた政権も」――途中で潰え、滅んでいますから――

 二人が交わした会話を示す史料は、ほとんど残されていません。

 

 僅かに残されている史料に――

 織田信長が、羽柴秀吉――後年の豊臣秀吉――を相手に、西欧列強(ポルトガル)による植民地化の恐れについて語っていることを示すものがあるそうです。

 

 それによると――

 後年の豊臣秀吉が、織田信長の前で、

 ――西欧列強はキリスト教を広めることで日本を支配下に収めようとしている。

 との懸念を示したところ――

 織田信長は、

 ――日本を支配下に収めるのに十分な軍勢を日本に寄こすことは不可能である。

 と応じました。

 

 この辺は――

 織田信長の実に楽観的なところといえます。

 

 豊臣秀吉の上をいく喜気の強さがあったといえるでしょう。

 

 あるいは、

 ――比較的、冷静で楽観的な発想

 といってもよいでしょう。

 

 つまり――

 10月6日の『道草日記』で触れた“満州地域”の人々に通じる発想です。

 

 織田信長は、豊臣秀吉と同じく、喜気の強い人物であっただけでなく――

 12世紀の金や17世紀の清を興した“満州地域”の人々と同じように、

 ――比較的、冷静で楽観的な発想

 の持ち主でもあったに違いない、と――

 僕は感じています。