マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

徳川家康は、なぜ“ボヤポン”であったか

 ――豊臣秀吉は“ニコポン”であったが、徳川家康は“ボヤポン”であった。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 念のために、繰り返しますと――

 「ニコポン」というのは、

 ――ニコニコと笑いながら目下の者の肩にポンポンと手を置きつつ、親し気な言葉をかけること
 で――

「ボヤポン」というのは、

 ――ボヤきつつも、まるで目下の者の肩にポンポンと手を置くかのように、親し気な言葉をかけること

 です。

 

 なぜ豊臣秀吉は“ニコポン”で、徳川家康は“ボヤポン”なのか――

 

 ……

 

 ……

 

 それは――

 豊臣秀吉が喜気の強い人物であったと考えられるのに対し――

 徳川家康は喜気の強くない人物であったと考えられるからです。

 

 徳川家康は、冷静沈着に振る舞うことができ、節約に励んで浪費を好まず、言葉巧みに多くを語ることのない人物であったと伝えられています。

 

 有名な、

 ――人の一生は重荷を負って遠き道をゆくがごとし。

 の言葉は後世の創作のようですが――

 そのような言葉の似あう生涯を徳川家康が過ごしたことは事実です。

 

 戦国期の弱小大名としてキャリアをスタートさせ、隣国の強豪たちからのプレッシャーにさらされながら、何とかして戦乱の世を生き残っていきました。

 そして、還暦の頃になって、ようやく天下取り競争の主役に躍り出て、持ち前の慎重さを発揮して、最後まで油断をすることなく、その競争に勝利をしました。

 

 このような生涯は、喜気の強い人物には、まず無理でしょう。

 

 さらに想像力を逞しくするならば――

 徳川家康は、むしろ、

 ――わずかに“憂気”を含んだ性格

 ではなかったか、と――

 僕は感じます。

 

 10月13日の『道草日記』で――

 織田信長は、

 ――比較的、冷静で楽観的な発想

 の持ち主であったと述べましたが――

 徳川家康は、

 ――比較的、冷静で悲観的な発想

 の持ち主であったと、僕は感じます。

 

 悲観的であったからこそ――

 常に最悪のことを考え、慎重に備えていくことができた――

 

 そして――

 悲観的であるからこそ――

 心許せる相手には、ついボヤきが増えていく――

 

 ……

 

 ……

 

 喜気の強かった豊臣秀吉が、わけもなくニコニコしていたときに――

 どちらかというと“憂気”の強かった徳川家康は、不用意にボヤいていた――

 そう考えられます。

 

 この違いが、

 ――豊臣秀吉の“ニコポン”

 ――徳川家康の“ボヤポン

 に繋がった、と――

 僕は考えています。