――“感情の分布図”の第4象限に配されるような人物とは、いったい、どんな人物なのか。
ということを――
きのうの『道草日記』で問いました。
――感情の分布図
の第4象限とは、
――“憂・勇”領域
です。
この領域に配される人物とは、
――“憂気”を含みつつも、勇みやすい人物
ということになります。
そして――
その人物は、“勇・喜”領域と目される織田信長とも、“喜・怯(きょう)領域と目される”豊臣秀吉とも、“怯・憂”領域と目される徳川家康とも違う、と――
……
……
“憂・勇”領域に配されうる人物を――
強いて織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の同時代人の中から挙げるとしたら、
――伊達政宗
でしょう。
伊達政宗については、10月20日の『道草日記』で述べました。
もし、同じ世代であったなら、ひょっとすると日本列島に君臨をしたかもしれない人物といわれています。
が――
僕は、
(伊達政宗は、基本的には“勇・喜”領域の人物であろう)
と考えています。
つまり、織田信長と同じです。
ただし、
(織田信長よりも“勇”や“喜”が弱かった)
と、僕は感じています。
それゆえに――
織田信長のような頓死は免れた、と――
……
……
伊達政宗は、“感情の分布図”の原点――つまり、“怯・勇”軸と“憂・喜”軸との交点――に近いという意味で、徳川家康に似ています。
徳川家康は、10月20日の『道草日記』で述べたように、末期の床に伊達政宗を呼び出しました。
呼び出す気になったのは、“感情の分布図”の原点に近いという類似点を、子の世代である伊達政宗に感じとっていたからでしょう。
そして――
その類似点は、伊達政宗のほうでも感じとっていた――
それゆえにこそ、伊達政宗は、「政宗、謀叛!」の噂が立っていたにもかかわらず、あえて徳川家康の呼び出しに応じたに違いありません。
つまり――
伊達政宗は、“憂・勇”領域に配される人物とはいいにくい――
……
……
では――
どんな人物が、“憂・勇”領域に配されるのか――
……
……
(日本列島の人々から探し出すのは難しい)
と、僕は思っています。
が、
(“満洲地域”の人々から探し出すのだったら、何とかなる)
と、僕は思っています。
あす以降――
そのことを述べます。