マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

清の太祖ヌルハチは、“喜気が強く、勇みやすい人物”であった

 いわゆる、

 ――満州地域

 の人々が、

 ――比較的、冷静で楽観的な発想

 の人々であることは――

 10月6日の『道草日記』で述べました。

 

 “満州地域”の人々は――

 勇んで猛ることはあっても――

 猛り狂うことはなく――

 最終的には、遼河流域から黄河流域に入り、次いで、長江流域にも入って――

 17世紀には、中国の全土を支配下に収めました。

 

 このような“満州地域”の人々の躍進を導いたのは、

 ――喜気が強く、勇みやすい人物

 つまり、

 ――織田信長と同じような性質の持ち主

 であったと考えられます。

 

 清の太祖は――

 その典型です。

 

 ……

 

 ……

 

 ――清の太祖

 というのは後世の廟号(びょうごう)です。

 

 「廟号」とは、祖先の霊廟に記す名前のことで――

 少なくとも、今日の日本語圏における歴史書の類いでは、ほとんど使われません。

 

 一般には、

 ――アイシンギョロ・ヌルハチ

 あるいは、たんに、

 ――ヌルハチ

 と記されます。

 

 ヌルハチは、織田信長の子の世代――伊達政宗とほぼ同じ世代――です。

 その生涯は、織田信長と似ています。

 

 弱小豪族の家に生まれ――

 まずは一族の指導者となり――

 次いで、強大な好敵手を破って一気に領土を広げました。

 

 織田信長にとっての桶狭間の戦いは――

 ヌルハチにとってのグレの戦いです。

 

 この戦いにおいて――

 ヌルハチは、圧倒的に不利な戦略的状況のもと、鮮やかな用兵により、戦術的成功を収め、“満州地域”の覇権を握りました。

 

 また――

 織田信長にとっての本能寺の変は――

 ヌルハチにとっての寧遠城の戦いです。

 

 この戦いにおいて――

 ヌルハチは、大砲を備えた城の攻略を十分に練らずに強攻を試み、敵の砲撃で重傷を負い、その傷が原因で亡くなります。

 

 織田信長のような酷い頓死ではありませんが――

 “満州地域”の統一を果たした君主が、戦傷で亡くなっているのですから――

 頓死といえば、頓死です。

 

 ヌルハチが、織田信長のような酷い頓死を免れたのは――

 “満州地域”の人々が、

 ――とくに不安を感じやすいわけではなかったから――

 に違いありません。

 

 もし、“満州地域”の人々が、日本列島の人々と同じように、不安を感じやすかったら――

 ヌルハチも、清の太祖とはなりえず、織田信長と同様の末路を辿ったことでしょう。