――清の乾隆(けんりゅう)帝は、本質的には何もしない指導者であった。
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
……
……
乾隆帝には、ちょっと酷ないい方でした。
僕は、11月15日の『道草日記』で述べたように、乾隆帝のことが、どちらかといえば嫌いなのですが――
それでも、不公平ないい方をするべきではなかった、と――
今は反省をしております。
乾隆帝が本質的には何もしない指導者であったといえるのは――
もし、乾隆帝が、守成期ではなく、創成期の君主であったなら――
かなりのことを成し遂げていたでしょう。
それこそ――
初代の太祖ヌルハチや、その子の太宗ホンタイジ、あるいは、その孫の世祖フリン(順治帝)の後見役を務めたドルゴンを彷彿とさせるような働きをしたことと思います。
乾隆帝の気質は、創成期に向いています。
では――
乾隆帝の祖父・康熙(こうき)帝は、どうであったか――
……
……
康熙帝も、乾隆帝と同じく、皇朝の守成期に巡り合ったといえます。
もちろん、康熙帝の治世は、乾隆帝の治世よりも、皇朝の基盤が不完全でしたから、創成期らしき雰囲気が遷延をしていたことは、十分に考えられます。
が――
清が、明の都へ拠点を移し、そこから中国の全土に向かって最初の号令を発したのは、あくまで順治帝――康熙帝の父――の治世のことであり――
その意味で、康熙帝は、創成期の君主とはみなしにくいのです。
百歩、譲るならば――
康熙帝は、創成から守成にかけての移行期の君主でした。
この移行期を見事に乗り切ったのが、康熙帝の最大の業績といえます。
三藩の乱での果断な対処から推し量られることは――
創成から守成にかけての移行期だけでなく、純然たる創成期においても、康熙帝は、君主として十分な働きをしえたに違いない――
ということです。
初代ヌルハチ、二代ホンタイジ、あるいは、三代フリン(順治帝)の後見ドルゴンと比べても、まったく遜色のない働きをしたことでしょう。
康熙帝の最大の特長は――
その気質が守成期に向いていたにも関わらず、創成期にも巧く適応をしえたであろう、と――
みなせるところです。
そのような君主は、“感情の分布図”でいえば、原点――“怯・勇”軸と“憂・喜”軸との交点――に近いところに配されるのが、一般的です。
日本でいえば、徳川家康や伊達政宗が、それにあたります――10月23日や10月24日の『道草日記』で述べた通りです。
康熙帝が“憂・勇”領域に配される指導者であるということは――
10月28日以降の『道草日記』で繰り返し述べてきましたが――
その康熙帝が、“感情の分布図”の原点の近くに配される指導者であることは、疑いようがありません。
その意味で――
康熙帝は、徳川家康や伊達政宗に似ているといえます――もちろん、君主として支配下に置いていた国土は、それら2人よりも遥かに広大であったわけですが――