――清の最盛期を指す文言「三世の春」は、康熙(こうき)帝が名君であることを示すと同時に、乾隆(けんりゅう)帝が名君でないことも示している。
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
こう述べると、
と考える人たちは、もちろんのこと、
――乾隆帝は、中国史上最高というわけではないにせよ、十分に名君である。
と考える人たちからも、反論が寄せられるでしょう。
それでも――
僕は再反論を試みます。
……
……
――三世の春
というと、「三世」が「康熙・雍正(ようせい)・乾隆の治世」を意味している事実から、
――“三世の春”は康熙帝・雍正帝・乾隆帝3人による協働の成果である。
と、みなされがちです。
が、
(少し違う)
と、僕は考えます。
康熙帝が後継指名をしていた第2皇子の廃嫡に追い込まれたことは――
11月3日の『道草日記』で述べました。
実は――
康熙帝は、第2皇子を廃嫡にした頃に、当時まだ少年であった乾隆帝の才覚を見出しています。
乾隆帝は6歳の頃に、宋の時代――当時からみて700年ほど前――の学者・思想家が残したある文芸作品を諳(そら)んじたといわれているのです。
それを知った康熙帝が、
――私よりも才能に恵まれている。
と考え、以後、宮中に引き取り、自身の手元で養育を受けさせたそうです。
――この孫こそ、我が後継者にふさわしい。
そう直感をした康熙帝は――
心密かに乾隆帝を後継者に定め――
そこから逆算をし、乾隆帝の父である雍正帝を暫定の後継者に定めたのではないか――
そう思います。
が――
その決定を公にしてしまうと、再び後継指名の撤回に追い込まれる危険性が生じます。
そこで――
康熙帝は、自身の死期が迫るまで、その決定のことを誰にも――当の乾隆帝はもちろん、その父である雍正帝にも――黙っていたのではないか――
そう思えるのです。
……
……
――皇朝・清は末代まで著しい暗君を出さなかった。
と、しばしば指摘をされます。
その理由として考えられているのが――
特徴的な後継指名方式です。
清の皇帝は、後継者を決めはするのですが、公表をしません――後継者本人にも伝えません。
自分が亡くなった後に公表をさせ、その公表によって後継者本人も自分が後継者であることを知るのです。
――太子(たいし)密建(みっけん)
と呼ばれる後継指名方式です。
この方式を作り上げたのは雍正帝と考えられています。
たしかに、太子密建を制度として世に明確に示したのは雍正帝で間違いないでしょう。
が――
この制度の原案を練ったのは、おそらくは康熙帝です。
雍正帝は、父・康熙帝が苦心の末に捻り出したアイディアに、形を与えただけではないでしょうか。
よって、
――“三世の春”は康熙帝・雍正帝・乾隆帝の3人による協働の成果である。
というのは、半分は当たっていて、半分は外れています。
たしかに――
“三世の春”の主役は3人です――康熙帝・雍正帝・乾隆帝の3人――
そして、この3人は、各々の治世において、演出も担っています――つまり、監督・主演です。
が――
“三世の春”の企画を立て、脚本を書き、重要な配役などを決めたのは――
おそらくは、康熙帝ただ1人です。
雍正帝や乾隆帝は、“三世の春”の監督・主演は務めていますが、制作にはタッチしていないのですね。
つまり――
『三世の春』という名の映画は、
【企画・制作・脚本】康熙帝
なのです。
こうした視点に依ります。