マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

乾隆帝は実は暗君ではなかったか

 ――清の乾隆(けんりゅう)帝が名君であるには、認知症の病前対応を適切にとることが必要であった。

 ということを、きのうの『道草日記』で述べました。

 

 ただし――

 それは、現代医療に与れる僕らにとってさえ、かなり困難なことであり、18世紀を生きた乾隆帝にとっては、とてつもなく困難なことであった――

 とも述べました。

 

 よって――

 ことは、たんに、 

 ――運・不運の問題

 であったのかもしれません。

 

 「認知症」の医学的概念が確立をされていなかった時代に、認知症を患ってしまった乾隆帝は、例えば、祖父・康熙(こうき)帝や父・雍正(ようせい)帝と比べて、大いに不運であった――

 ということです。

 

 よって――

 11月8日の『道草日記』で述べたように、

 ――乾隆帝は、“名君”ではなかったが、“明君”ではあった。

 というのが、まずまず穏当な主張である、と――

 僕は考えています。

 

 が――

 

 それは、それとして――

 

 ……

 

 ……

 

 僕は今――

 あえて、

 ――乾隆帝は暗君であった。

 と、みなしたい衝動に駆られています。

 

 ――それは、たんにお前の好き嫌いの問題だろ!

 と、いわれてしまえば、それまでです。

 

 たしかに、僕は、

 ――乾隆帝が好きか嫌いか。

 と問われれば、

 「嫌い」

 と答えます。

 

 が――

 好き嫌いを別にしても――

 やはり、僕は、

 ――乾隆帝は実は暗君ではなかったか。

 と問いたい欲求を覚えます。

 

 念のために断っておくと――

 この問いは、

 ――乾隆帝は知的能力が低かったのではないか。

 ということを意味してはいません。

 

 むしろ、

 ――乾隆帝の知的能力は高かった。

 と僕は考えています。

 

 ――知的能力は高かったのに、暗君であった。

 とは、どういうことか――

 

 ……

 

 ……

 

 ――君主としてのスジが悪かった。

 ということです。

 

 あるいは、

 ――組織のトップとしての感性が鈍かった。

 といってもよいでしょう。

 

 具体的に、どんなところに“スジの悪さ”を感じるのか――

 

 簡単にいうと、

 ――いい加減

 なところです。

 

 ……

 

 ……

 

 乾隆帝が大規模な遠征を10回ほど行っていることは――

 11月8日の『道草日記』で述べました。

 

 遠征先としては、現在の四川省新疆ウイグル自治区、その北西部のジュンガル盆地、あるいは、ネパール、チベット、台湾、ミャンマーベトナムなどです。

 

 この10回の遠征を通し、清は版図を最大にしたのですが――

 その戦績は、

 ――何とか勝ち越した。

 といえる程度のものであったにもかかわらず――

 乾隆帝は、

 ――10戦すべてに勝った。

 といいはり、自分のことを、

 ――十全老人

 と称しました。

 

 このことをもって、

 ――いい加減

 と評するつもりはありません。

 

 最後の遠征を終えた乾隆帝は80代に入っていました――すでに認知症を患っていたと考えられる時期です。

 ――十全老人

 と自賛をするくらい、目をつぶれます。

 

 僕が気にしたのは、

 ――なぜ遠征を始めたのか。

 です。

 

 乾隆帝が最初の遠征を始めたのは中年期でした。

 さすがに、まだ認知症は患っていなかったでしょう。

 

 遠征は、祖父・康熙帝は行いましたが、父・雍正帝は行いませんでした。

 乾隆帝も、20代で即位をした後しばらくは控えていました。

 

 それなのに――

 中年期に入って、なぜ急に始めたのか――

 

 その狙いが――

 いま一つよくわからないのです。

 

 ――少しでも領土を広げておこう。

 あるいは、

 ――周辺諸国を少し脅しておこう。

 といった狙いしか思い当たらないのですね。

 

 ――遠征

 というのは、要するに、

 ――対外戦争

 です。

 

 ――対外戦争

 は、

 ――外交

 の一環です。

 

 よって――

 しばらく控えていた遠征を始めるということは、外交の大転換であったはずですが――

 それが伝わってきません。

 

(ただ何となく祖父の真似をしてみたくなっただけではないか)

 

 乾隆帝について、僕が、

 ――いい加減

 と感じるのは――

 そういうところです。