――清の乾隆(けんりゅう)帝は、君主としての退き際を間違え、後世の名声を失ったので、名君ではありえない。
ということを、11月10日の『道草日記』で述べました。
では――
乾隆帝が名君であるには何が必要であったでしょうか。
もちろん――
君主としての退き際を間違えないようにすることですね。
では――
どうすれば、君主としての退き際を間違えずに済んでいたのでしょうか。
……
……
これが、なかなかに難しいのですね。
……
……
11月10日の『道草日記』で述べた通りです。
問題は――
発症の時期です。
――60代ではないか。
と考える人が多いようです。
乾隆帝が、母方の親族の一人で自分より40歳ほど若い男を重く用い、その男の専横を許したことは、11月10日の『道草日記』で触れた通りですが――
その男を重く用い始めたのが60歳すぎなのだそうです。
が――
もし、そうだとすると――
乾隆帝は30年近く認知症を患いながら生存をしていたことになります――乾隆帝が亡くなったのは満88歳です。
一口に「認知症」といっても様々なタイプがあり、病状の進行の速さも様々です。
ただし、どのタイプの認知症も脳に起こる何らかの病的変化が原因であり、だいたい3~10年のうちに生命維持ができなくなると考えられています――脳は、脳死のような特殊な状態を除けば、生命維持に必須の器官です。
よって、乾隆帝が認知症を発してから30年くらい生き永らえたというのは、少し考えにくいのです。
つまり――
乾隆帝が、母方の親族の若者を重く用い始めたときには、まだ認知症を発していなかったと考えるのが自然である、という話になります。
もし、そうであれば――
乾隆帝は、実は人を見る目がなかったということであり――
名君はおろか、明君ですならなく、ただの暗君であった、ということになります。
実は――
個人的には、
――乾隆帝はただの暗君で、父や祖父の敷いたレールに乗っかっていただけではなかったか。
と思っています。
よって――
乾隆帝に対し、つい厳しい見方をしてしまうのですが――
もちろん、認知症の進み具合には個人差があります。
乾隆帝が、30年くらいにわたって徐々に進行をしていく珍しいタイプの認知症を患っていた可能性はあります。
もし、そうだと仮定をすると――
かなり難しいのですね。
乾隆帝は、名君として後世から称えられるには、「認知症」という医学的概念さえ確立がされていなかった時代・地域において、認知症の病前対応を十分に行っておく必要があったのです。
具体的には、
――自分は認知症かもしれない。
と思い始めたら、まだ余力があるうちに、
――自分は認知症である。
ということを前提に据え、自分の身の振り方をあれこれ決めておく必要があったのです。
が――
これは非常に難しい――
――自分は認知症かもしれない。
と思ったら、たいていの人は大いに落胆をし、また、恐怖に打ち震えることになります。
そうした落胆や恐怖に打ち克って、
――自分は認知症である。
と思い定め、自分に厳しく身の振り方を決めていくということは、並大抵の胆力ではできません。
僕は、乾隆帝に対し、つい厳しい見方をしてしまうことは――
先ほど述べた通りです。
そんな僕でも――
乾隆帝が現代医療に与れる社会に生きていたとみなしても、それは酷です。
実際には、18世紀の社会を生きていたのですから、余計に酷です。
ただ――
そんな酷なことを、いとも簡単にやってのけていたとしたら――
乾隆帝は、間違いなく名君です。
中国史上最高の名君といっても過言ではないでしょう。