――清の乾隆(けんりゅう)帝は、君主としての退き際を間違えたので、名君ではありえない。
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
一方――
10月28日の『道草日記』では――
乾隆帝の祖父・康熙(こうき)帝は中国史上最高の名君であった、と――
述べています。
乾隆帝は名君でありえないのに、康熙帝が名君でありうる理由は何か――
一般に――
10月30日の『道草日記』で述べたように――
外交と内政とに一定の業績を残しつつ、60年以上にわたって中国の全土に君臨を続け、人心を落ち着かせたからです。
が――
その点だけをみれば、乾隆帝も同じです。
外交や内政の業績は、十分、康熙帝に比肩をしうる水準ですし、60年以上にわたった中国の全土に君臨を続けたことは確かですし、人心を落ち着かせたこともまた確かです。
それなにの――
なぜ乾隆帝は名君ではありえず、康熙帝は名君でありうるのか――
……
……
一言でいえば、
です。
実は――
康熙帝も、晩節を汚しかけています。
康熙帝が後継指名を2度も反故にせざるをえなかったことは――
11月3日の『道草日記』で述べた通りです。
このことは――
ときに、康熙帝の治世の汚点として語られることがあるのですが――
僕は、「汚点」どころか、むしろ「美点」であると思っています。
試みに――
康熙帝によって廃嫡をされた第2皇子――2度も後継指名から外された皇子――が、もし、廃嫡をされずに康熙帝の後を継いでいたらどうなっていたかを、考えてみるとよいでしょう。
実際には――
第4皇子であった雍正(ようせい)帝が、康熙帝の後を継ぎ――
その雍正帝は、子の乾隆帝に、しっかりとバトンを受け継がせ――
足かけ130年以上に及ぶ泰平の世を築くのに貢献をしたのですが――
もし、康熙帝の第2皇子が後を継いでいたら――
いったい、どうなっていたでしょう?
雍正帝と同じように、次の世代へ、しっかりとバトンを受け継がせることができていたでしょうか。
もちろん――
同じように受け継がせることができていた可能性は、あります。
が――
雍正帝が、あまりにも巧く受け継がせたことを踏まえると、
(その可能性は限りなくゼロに近い)
と、僕は感じます。
むしろ――
後継指名のプレッシャーに押し潰されるようにして日頃の素行を乱していったらしいところをみると――
康熙帝の第2皇子は、康熙帝の業績を一代で引っくり返しかねない暗君になっていた可能性のほうが高いと感じます。
康熙帝は――
おそらく、第2皇子を廃嫡にするという痛恨の決断を下すことで、自身の晩節の汚れるのを防いだのです。
皇朝において、君主は、
――絶対に判断を間違えない。
ということが建前にされていました。
そうした習わしのあるなかで、あえて廃嫡にする――自分の後継指名は間違っていたと暗に認める――
それは、
――恐るべき柔軟性
といってよいでしょう。
ただの明君には不可能なことです。