――清の乾隆(けんりゅう)帝の時代に、もし、その祖父・康熙(こうき)帝が皇朝を統べていたなら、海禁は見直され、その後の西欧からの外圧に抗いうる素地が作られていたであろう。
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
では――
その逆は、どうでしょうか。
つまり――
康熙帝の時代に、その孫・乾隆帝が皇朝を統べていたなら、どうなっていたか――
です。
……
……
(三藩の乱に敗れ、皇朝・清は“満州地域”に逃げ帰っていたであろう)
と、僕は考えています。
三藩の乱については――
11月1日の『道草日記』で述べました。
簡単にいうと――
明の元将軍たちによる皇朝・清への反乱です。
三藩の乱の発生当初――
清は劣勢でした。
その劣勢を跳ね返せたのは、康熙帝の個人的な資質に依るところが大きかった――
ということは、11月2日の『道草日記』で述べた通りです。
康熙帝が、“感情の分布図”において、“憂・勇”領域に配される指導者であったことも大きかったといえるでしょう。
一方――
乾隆帝は、“感情の分布図”において、“勇・喜”領域に配される指導者であったと考えられることは――
11月8日の『道草日記』で述べた通りです。
このために――
三藩の乱の発生当時、皇朝を統べていたのが乾隆帝であったなら、おそらくは喜気の強さが災いをし、祖父・康熙帝のような果断な対処はできなかったでしょう。
確たる根拠もなく、
――まあ、何とかなるであろう。
との甘い楽観を抱き、基本的には、ギリギリまで無為・無策で油断をしていて、ようやく危機に気づいたときには、慌てて“満州地域”へ逃げ出さなければならない状況に陥っていたのではないか、と――
僕は想像をします。
そのような甘さが、乾隆帝の統治の手法には感じられます。
乾隆帝は、本質的には、
――何もしない指導者
でした。
些末的なことは色々とやろうとするのだが――
本質的なことは何一つやろうとしない――
それが乾隆帝の正体であったと感じます。
きのうの『道草日記』で――
僕は、
と問いました。
その逆の質問は、本来、
となるはずですが――
僕は、あえて、
――どうなっていたか。
と問いました。
それは――
乾隆帝が、本質的には何もしない指導者であると考えているからです。
つまり、
――どうしていたか。
という問いの答えは、
――(本質的には)何もしなかった。
と、ならざるをえないのです。
こうした乾隆帝の姿勢は、いわゆる“三世の春”の中盤以降においては、大いに歓迎をされたと考えられます。
その意味で、乾隆帝は、やはり、
――“名君”ではなかったが、“明君”ではあった。
と評するのが、公正かもしれません。
が――
乾隆帝が、“三世の春”を終わらせ、皇朝・清を緩やかな滅亡に導いたことを、僕らは見過ごさないほうがよいのです。
乾隆帝は、“三世の春”の中盤に登場をし、それ以降を治める皇帝であったので――
「緩やかな滅亡に導いた」くらいの災厄で済んだ――
と、いえます。
もし、“三世の春”の序盤に登場をしていたなら――
皇朝を速やかな滅亡に導いたことでしょう。