――清の乾隆(けんりゅう)帝が本物の名君であれば、ただ“三世の春”の謳歌に満足をすることなく、海禁の政策を改め、西欧の覇権国家に抗いうる素地をいち早く作ったに違いない。
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
こう述べると、
――そんなのは、陳腐な結果論にすぎない。
とか、
――後世から無策や失策を糺す意義はない。
とかいった叱声が飛んでくると思います。
その通りです。
よく、
――国家百年の計
などといいますが――
本当に100年先の未来を見据えて国家の運営にあたり――しかも、その運営の方針が十分に的を射ていたと、後世から好ましく評されるような事例は、きわめて稀です
そんな稀有を乾隆帝に期待するのは、
――ないものねだり
に近いでしょう。
が――
ふと考えるのです。
(康熙(こうき)帝なら、どうしていたか)
と――
……
……
康熙帝は、西欧の文物に深い関心を示しました。
キリスト教の宣教師で、西欧の科学技術に明るかった人物を傍におき、その人物から西欧の天文学や幾何学、地理学などを学んだといいます。
また、中国の天文学を西欧の天文学と比べ、どちらに説得力があるかを論じさせ、最終的には、どうやら西欧の天文学のほうに優位性があるらしいことを確かめたと伝えられています。
その視線は、自国文化の無批判な礼賛とは無縁です。
おそらく、康熙帝は、西欧の文物の特長を正しく掴んでいたでしょう。
そして、それら特長の一部が、いずれは自身が統べる国家の脅威となりうることも――
が――
康熙帝の時代には、西欧からの外圧は、そんなに強くはありませんでした。
当時の西欧は、覇権国家のオランダが新興国のイギリスの挑戦を受け始め、しだいに衰退をしていく頃です。
中国への外圧が強まるような状況にはありませんでした。
加えて――
ようやく創成期を終えかけていた皇朝・清の基盤は、海禁の政策をあっさり改められるほど十分には定まっていませんでした。
つまり――
康熙帝の時代には、海禁をある程度の精度で保ちつつ、少しでも領土を広げ、周辺諸国に睨みを利かせる外交が、一定の意味をもっていました。
そんな康熙帝が――
もし、乾隆帝の時代に生きていたら、何を感じ、何を考え、何を行ったか――
……
……
僕は、
(海禁を改めていたのではないか)
と思うのです。
少なくとも、海禁を漫然と続けることはなかったでしょう。
それが100年先の中国にとって、どれほど危険で無意味なことか――
西欧の文物に通じた康熙帝なら十分に察しえたのではないかと思うのです。