マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

乾隆帝が本物の名君であれば……

 ――清の乾隆(けんりゅう)帝は、深い考えもなく、ただ何となく遠征を始めたようなので、君主としてのスジが悪かったのではないか。

 ということを――

 きのうの『道草日記』で述べました。

 

 このように述べると、

 ――なぜ「深い考えもなく、ただ何となく遠征を始めたよう」といえるのか。

 と訝る向きがあるかと思います。

 

 答えは簡単です。

 乾隆帝が、

 ――海禁

 の方針を改めなかったからです。

 

 「海禁」とは、

 ――民衆の海上交通の利用に制限をかける政策

 を指します。

 

 日本の徳川幕府が、

 ――鎖国

 を行いましたが――

 ――海禁

 は、“鎖国”の中国版といってよいでしょう。

 

 清の1つ前の時代である明の時代から――

 中国の人々は私的な海外渡航や自由な海上貿易を基本的には禁じられていました。

 

 その目的は、海賊の制圧と密貿易の防止です。

 

 ――海禁

 は、一定の成果をあげたと考えられています。

 少なくとも、皇朝の混乱期や創成期には、政情を安定化させる意義があったと考えられています。

 

 が――

 “三世の春”が謳われた時期にまで、それが必要であったのか――

 

 ……

 

 ……

 

 今日――

 中国の歴史家たちの間では、

 ――中国が西欧に遅れをとったのは、海禁のためである。

 との総意ができあがっているそうです。

 

 その通りと思います。

 

 西欧で大航海時代の幕が開き――

 ポルトガルやスペインが、いわゆる覇権国家として、世界に君臨をしようとしていた気配を――

 明はもとより、清も、気づくのが遅れたのです。

 

 清が気づいたのは、いつか――

 

 おそらく――

 1840年に始まったアヘン戦争です――乾隆帝の孫である道光帝の治世でした。

 

 イギリスは、1700年代に産業革命を起こし、1800年代の初頭には西欧で覇権国家となっていました。

 そのイギリスが清に戦争をしかけ、産業革命によってもたらされた兵器の威力の前に、清は成す術もなく敗れました。

 

 この戦いに敗れてもなお、清は、西欧の覇権国家が世界に君臨をしようとしていた事実に、いま一つ気づかなかった、と――

 いわれています。

 

 いち早く気づいたのは、むしろ周辺諸国であり――

 とくに日本の徳川幕府の首脳部や在野の学者たちが、アヘン戦争の勃発とその結果とに大変な衝撃を受けたといわれています。

 

 僕は、

 (乾隆帝が本物の名君であれば、アヘン戦争は起きなかった。起きたとしても、だいぶ違った形になっていたに違いない)

 と考えています。

 

 もし、乾隆帝が――

 アヘン戦争が起こる100年くらい前から、アヘン戦争のような事態が起こる危険性を察し――

 例えば、

 ――海禁

 の方針を改め、商人や学者らを海外へ積極的に出していったなら――

 

 産業革命は、イギリスではなく、中国で起こっていたかもしれません。

 あるいは、イギリスで起こった産業革命を、中国は、いち早く取り入れることができたかもしれない――

 

 そうなっていれば――

 “三世の春”は、“四世の春”、“五世の春”、“六世の春”と続いていったに違いない――

 

 そう思います。