マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

林則徐は“感情の分布図”のどこに配されるか

 ――感情の分布図

 という模式図を、9月24日の『道草日記』で示しました。

 

 横に情動軸、

 

  ←怯(きょう)―――勇→

 

 をとり――

 縦に気分軸、

 

  ←憂―――喜→

 

 をとって――

 第1象限として“勇・喜”領域を――

 第2象限として”喜・怯”領域を――

 第3象限として“怯・憂”領域を――

 第4象限として“憂・勇”領域を――

 それぞれ設えます。

 

 その上で――

 ある人物について――

 これら4つの領域のどこに配すかによって、その人物のおよその気質を表すのです。

 

 例えば、“三世の春”の三帝についていえば、

  康熙(こうき)帝:“憂・勇”領域

  雍正(ようせい)帝:“憂・勇”領域

  乾隆(けんりゅう)帝:“勇・喜”領域

 と表されます。

 

 この“感情の分布図”を考えるとき――

 ――アヘン戦争の英雄

 と称えられる林(りん)則徐(そくじょ)は、どこに配されそうか――

 

 ……

 

 ……

 

 ほぼ間違いなく、

 ――“憂・勇”領域

 でしょう。

 

 林則徐は質素を好みました。

 

 欽差(きんさ)大臣として任地に赴く際に――

 派手な歓待を禁じました。

 

 欽差大臣は皇帝の名代ですから――

 都からの道中、派手な歓待を受けやすいのです。

 

 大役を与えられ、様々な特典や栄誉を手にしても――

 林則徐は全く浮かれませんでした。

 

 喜気とは無縁なのです。

 

 一方――

 アヘン問題という大変な難題から――

 林則徐は逃げませんでした。

 

 常に最悪の事態を思い――

 精査・熟慮を重ね、

 ――何もしないで滅ぶよりは、何かをして滅ぼう。

 と覚悟を決める人物です。

 

 “憂気”に裏打ちをされた勇気を秘めていたに違いありません。

 

  憂 + 勇 = 怒

 であることは――

 9月13日以降の『道草日記』で繰り返し述べています。

 

 林則徐の“怒”は

 ――アヘン

 に向かいました。

 

 ちょうど――

 康熙帝の“怒”が、三藩の乱に際し、明を裏切って清に降伏をした将軍たちへ向かったように――

 林則徐の“怒”は、アヘン戦争に際し、人々の心身の健康を損なわしむる麻薬へ向かいました。

 

 林則徐は――

 彼の主君の高祖父――祖父の祖父――が、そうであったように――

 ほのかな“憂気”を含みつつも、決して怯まない、むしろ勇みやすい人物であったと考えられます。