――清の康熙(こうき)帝は、“感情の分布図”において、原点に近いところに配される指導者という意味で、日本の徳川家康や伊達政宗に似ている。
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
類似点としては、その通りなのですが――
では――
相違点は、どうでしょうか。
つまり――
……
……
実は、決定的な違いがあります。
それは――
“感情の分布図”において――
徳川家康および伊達政宗は、それぞれ“怯(きょう)・憂”領域および“勇・喜”領域に配される指導者であるのに対し――
康熙帝は、“憂・勇”領域に配される指導者である――
という点です。
もう少し、端的にいうと、
――康熙帝は、徳川家康や伊達政宗と違って、気質の一般的な傾向から逸脱をしている。
と、なります。
一般に――
人は――
“勇・喜”領域か“怯・憂”領域かの、どちらかに配されることが多く――
“喜・怯”領域や“憂・勇”領域に配されることは、そんなに多くない――
ということが、経験的に知られています。
つまり――
人は、概して、
――勇みやすい性格なら喜気が強く、怯みやすい性格なら“憂気”が強い。
ということですね。
この気質の一般論に――
一方――
豊臣秀吉などは当てはまりません。
豊臣秀吉が“喜・怯”領域に配される指導者であることは――
10月23日の『道草日記』で述べた通りですが――
――気質の一般的な傾向から逸脱をしている。
と、いえます。
このような意味で――
もちろん――
君主として支配下に置いた国土は、豊臣秀吉よりも遥かに広大であったことは――
あらためて指摘をするまでもありません。
豊臣秀吉が、いわゆる朝鮮出兵によって、明の都を本気で攻め落とそうとしていたことは――
10月9日の『道草日記』で述べましたが――
という主張は――
康熙帝と同じくらいに優れた君主としての資質が豊臣秀吉にもあった――
という結論を導くものではありません。