――清の太宗ホンタイジは、“憂・勇”領域ではなく、“喜・怯(きょう)”領域に配される。
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
つまり――
清の君主についていえば――
初代の太祖ヌルハチは、“勇・喜”領域に配され――
二代の太宗ホンタイジは、“喜・怯”領域に配される――
ということです。
では――
三代の世祖フリンは、どうでしょうか。
実は――
このフリンから以後三代(三代、四代、五代)にわたって――
清の君主は、いずれも“憂・勇”領域に配される、と――
僕は考えています。
――喜
の明るさがありました。
が――
三代フリン以後には明るさがないのです――何となく暗いのですよね。
こう述べると――
中国の歴史に詳しい方は、
――あの康熙(こうき)帝も暗いというのか。
と訝るかもしれません。
――康熙帝
というのは、清の四代目の君主で、フリンの子です。
廟号は、
――清の聖祖
といいます。
唐の太宗と並んで中国史上最高の名君と評されています。
僕も思います。
が――
その康熙帝の気質にも、ある種の暗さが感じられるのです。
そして――
康熙帝には、何より、
――怒
の感情が強く感じられます。
9月15日の『道草日記』で述べたように、
怒 = 憂 + 勇
です。
……
……
康熙帝の話を始める前に――
その親であるフリンの話に戻りましょう。
フリンはホンタイジの子です。
わずか6歳で父の後を継ぎました。
父ホンタイジは52歳で急死をしたのです。
脳卒中であったと考えられています。
ホンタイジの死後――
深刻な後継者争いが起こりました。
ホンタイジの子ホーゲ(フリンの異母兄)とホンタイジの弟(異母弟)ドルゴンとの争いです。
ホンタイジは跡継ぎを決めずに亡くなりました。
この後継者争いは、
――おそらくドルゴンが勝つ。
と目されていたそうです。
が――
急死を遂げた二代目の子と弟との後継者争いですから――
ふつうに争えば、清の国力は大きく削がれることになります。
それを、ドルゴンが嫌いました。
5歳のフリンを後継者に推し、自分はフリンの補佐役(摂政)に回ったのです。
よって――
フリンは清の三代目に数えられてはいますが――
実質的には四代目であり――
実質的な三代目はドルゴンであったといってよいでしょう。
ドルゴンは、ヌルハチやホンタイジの果たせなかった宿願をほぼ果たしました。
中国の全土を支配下に収めるという宿願です。
明の皇朝は、大規模な農民反乱に苦しんだ末――
ついに反乱軍によって都を攻め落とされ、ときの皇帝――明の毅宗・崇禎(すうてい)禎――は自殺に追いやられます。
その混乱に乗じ――
ドルゴンは明の都へ無血入城を果たし――
甥フリンを迎え入れ、中国の支配者として君臨をさせました。
以後のフリンを、
――順治(じゅんち)帝
と呼びます。
――順治
というのは清が定めた元号です。
清は、フリン以後、明に倣って一世一元の制を採りました。
ところが――
……
……
順治帝は叔父ドルゴンのことを激しく憎んでいたと考えられています。
ドルゴンは、順治帝が13歳のときに、兄(異母兄)ホンタイジと同じような急死を遂げるのですが――
その葬儀を粛々と採り行った後――
順治帝は、14歳で親政を始めます。
その親政の手始めが、ドルゴンの残滓の一掃でした。
生前のドルゴンの名誉を剥ぎ取り――
その非を苛烈に責めたのです。
簡単にいうと、
――皇帝である私をないがしろにした。
という主張でした。
ここに――
順治帝すなわちフリンの暗さが結実をしています。