清の世祖・順治(じゅんち)帝が、大功のあった叔父ドルゴンを、
――皇帝である私をないがしろにした。
という理由で、死後に激しく貶めたことについて――
きのうの『道草日記』で述べました。
このように述べると――
順治帝が暗君であるかのようですが――
そんなことはありません。
順治帝は、子の康熙(こうき)帝ほどではないにせよ、十分に英邁な君主でした。
明代以前の中国の歴史をよく学び、中国の歴代の皇朝が宦官(かんがん)によって政治を乱されてきた事実に敏感でした。
――宦官
とは去勢を受けた男性官吏のことで――
本来は、後宮(皇帝夫妻らの居住区域)の雑事を担っていましたが――
後宮に出入りを許されていることから、皇帝の側近として権勢を振るいやすかったのです。
その宦官の弊害を正すために――
順治帝は宦官が政治に関わることを厳しく禁じました。
関わった宦官を、実際に死刑に処しています。
宦官は、本来、後宮の雑事のための官吏ですから――
順治帝の取り締まりは、きわめて当たり前の正道でした。
が――
その“当たり前”を実行に移すには、相応の気力が要ります。
中国の歴代の皇朝で権勢を振るってきた宦官たちの力を「正道」の名のもとに押し込めるのは、皇帝といえでも、並大抵のことではなかったはずです。
猛烈な抵抗を陰に陽に受けたことでしょう。
それら全ての抵抗を――
順治帝は払いのけたのです。
以後――
清の皇朝で宦官が権勢を振るうことはありませんでした。
ここにも――
僕は、順治帝の“怒”の感情をみます。
――正道を好み、邪道を憎もうとする心の働き
としての“怒”です。
そもそも――
順治帝は“憂気”の強い人物であったと考えられます。
叔父ドルゴンの死後、14歳で親政を始めたことは、きのうの『道草日記』で述べた通りですが――
23歳のときに、最も愛していた側室が亡くなって――
それを機に、すっかり塞ぎこんでしまいます。
そして――
翌年、24歳の若さで自身も亡くなるのです。
天然痘に罹ったためと伝えられます。
最愛の女性の死を契機に抑鬱を呈し――
しだいに体力が落ちて、ウイルス感染症ないし細菌感染症で亡くなったと考えられます。
おそらく、生来の病弱な気質・体質であったのでしょう。
が――
順治帝は、自身の運命から無責任に逃れようとはしませんでした。
偉大な父や祖父の名に恥じず――
勇気を振り絞って、中国の全土を支配下に収めようとし――
実際に、ほぼ収めきった君主でした。
――憂
の中に、
――勇
を秘めた指導者――不安を感じやすい人々で多数派を占める日本列島では、まず見かけないタイプの指導者――であったといえます。