――清の世宗・雍正(ようせい)帝は、祖父・順治(じゅんち)帝によく似て、“憂”の中に“勇”を秘めていた指導者ではなかったか。
ということを――
きのうの『道草日記』で述べました。
こう述べると、
――兄弟を追いやったり、功臣を殺したり、官僚を締め上げたり、学者を脅したりした指導者が、なぜ「“勇”を秘めていた」なのか。むしろ、「“怯(きょう)”に苛まれ、疑心暗鬼が過ぎていた」と評するべきではないか。
と訝る向きもあるでしょう。
たしかに、その通りです。
雍正帝は、一見、恐怖政治の暗君です。
が――
見過ごせないことは、
――なぜ雍正帝は、兄弟を追いやったり、功臣を殺したり、官僚を締め上げたり、学者を脅したりしたのか。
という視点です。
雍正帝は――
そのような粛清や統制を闇雲にやっていたわけではないようです。
兄弟の中でも、自分の即位の正当性を認めて恭順の意を示した者は、追いやったりせずに、むしろ重く用いて爵位の世襲を許すなどの厚遇をしているようです。
即位の前から自分に忠誠を尽くしてきた部下たちを大切にし、即位の後は、個々の適正を巧みに見極めた上で、能力のある者は要職に抜擢をしているようです。
宮廷の内外に密偵を放ち、官吏たちの気の緩みに目を光らせる一方、行いの優れている者を称え、報いることで、官吏たちの士気にも配慮をしているようです。
思想を制するにも思想が必要と考え、自ら学識を磨き、皇朝の見解に公然と抗った学者にも討論を挑んで、最終的には転向をさせ、許したりしているようです。
要するに――
雍正帝の施政には、ある種の定見がみてとれるのです。
それは、
――清の皇朝を自分の代で絶やさずに、次の代へ確実に引き継ぎ、さらなる発展や繁栄を究めていくには、何が必要か。
という問題意識です。
そのような問題意識に個別具体的に応えていく過程で――
雍正帝は、自分が、
――冷酷な独裁者
とみなされるリスク――とりわけ、後世の人々から忌み嫌われるリスク――を、あえてとったのではないでしょうか。
つまり――
雍正帝には、
――嫌われる勇気
があった――
ということです。
――“勇”を秘めていた――
というのは――
そうした意味です。
……
……
とはいえ――
まともな感覚の持ち主なら――
人々から忌み嫌われても全く平気である、ということはありえません。
それが必要悪とわかっていても――
人々から忌み嫌われるのは、つらく苦しいことです。
雍正帝は――
おそらく、まともな感覚の持ち主でした。
実際には、人々から忌み嫌われたくなかったのに、あえて忌み嫌われるリスクをとった雍正帝には――
強い精神的ストレスがかかったはずです。
だからでしょう。
雍正帝は即位後13年で亡くなっています。
享年は57でした。
死因は――
いろいろと取り沙汰をされていますが――
大まかにいえば、
――過労
でしょう。
非常に勤勉な皇帝であったといわれるので――
過労は心理・身体の両面に及んだと考えられます。
が――
より深刻であったのは、おそらく、心理面の過労です。