マル太の『道草日記』

ほぼ毎日更新――

乾隆帝は“明君”ではあっても“名君”ではない

 清の君主について――

 “感情の分布図”というものを考えたときに――

 

 初代ヌルハチは、“勇・喜”領域に配される人物であり――

 二代ホンタイジは、“喜・怯(きょう)”領域に配される人物であり――

 三代・順治(じゅんち)帝や四代・康熙(こうき)帝、五代・雍正(ようせい)帝は、いずれも“憂・勇”領域に配される人物である――

 

 ということを――

 10月28日の『道草日記』で述べました。

 

 では――

 六代目は、どうでしょうか。

 

 ……

 

 ……

 

 清の六代目の君主は、

 ――乾隆(けんりゅう)帝

 といいます。

 廟号は、

 ――清の高宗

 諱(いみな)は、

 ――弘暦(こうれき)

 です。

 

 乾隆帝は、ほぼ間違いなく、“勇・喜”領域に配される人物である、と――

 僕は考えています。

 

 父・雍正帝や祖父・康熙帝と違って、

 ――派手好みの性格

 であったといわれています。

 

 宮廷画家を重く用いるなど美術を愛し、自ら漢詩を数多く作るなど中国古来の文化に親しみました。

 また、宝物の収集に熱心であり、今日の故宮博物院にも、その収集の品は残されているといいます。

 一方、民心にも配慮を示し、たびたび減税を行ったようです。

 

 父や祖父は倹約に励み、国庫を潤沢にしましたが――

 その国庫の中身を、子は存分に使い込んだといえそうです。

 

 ――勇みやすい性格

 でもあったようです。

 

 大規模な遠征を10回ほど行っています。

 このために、清は乾隆帝の時代に版図を最大としました。

 

 このような史実と、その治世が祖父・康熙帝と同様に60年以上もの長きにわたっていることとから――

 乾隆帝を、祖父・康熙帝と並べて、中国史上最高の名君と評する人もいるようです。

 

 たしかに――

 乾隆帝は凡庸な君主ではありませんでした。

 

 少なくとも、暗君ではなく、

 ――明君である。

 といえるでしょう。

 

 が――

 乾隆帝の成したことの多くは、父・雍正帝や祖父・康熙帝の遺産に依っています。

 

 それら遺産を最大限に活かしきったという意味で――

 乾隆帝は、決して暗君ではなかったのですが――

 

 もし、父や祖父の遺産がなかったとしたら――

 どうであったでしょうか。

 

 例えば、祖父・康熙帝と同じような窮地に立たされたときに――例えば、三藩の乱のような危機的状況に立たされたときに――

 きちんと皇朝の危機を救えていたでしょうか。

 

 僕は、

 (大いに怪しい)

 と思っています。

 

 心のバランスを崩して勇んで猛るあまり――

 状況を過度に楽観的にとらえたり、敵対勢力を不用意に見くびったりして――

 致命的な過ちを犯したのではないか――

 

 ……

 

 ……

 

 きのうの『道草日記』で、

 ――皇朝の創成期には“喜”よりも“憂”が向いている。

 と述べました。

 

 乾隆帝は、おそらくは“喜”の気質の色濃い指導者でした。

 

 そんな指導者が、もし、康熙帝の時代に即位をしていたならば――

 清は、12世紀以後の金と同じ轍(わだち)を進み、中国の全土を支配下に収めることに失敗をしていたのではないか――

 そう僕は思います。

 

 その意味で――

 乾隆帝は、

 ――明君

 ではあっても、

 ――名君

 ではありません。

 

 もちろん、

 ――中国史上最高の名君

 でもありません。