――清の世宗・雍正(ようせい)帝は、父・康熙(こうき)帝の後継の座を勝ち得たたときに、実に際どい勝ち方をした。
ということを、きのうの『道草日記』で述べました。
まず確認をしておきたいことは――
きのうの『道草日記』で述べた通り――
康熙帝は、2度の後継指名の失敗に懲りて、あらためての後継指名は試みなかった、ということです。
つまり――
康熙帝は、少なくとも表立っては、雍正帝を後継者に定めてはいないのです。
康熙帝は満68歳で亡くなっています。
急な亡くなり方でした。
冬の寒さで体を冷やし、熱を出したそうです。
風邪かと思われていた矢先に、亡くなったといいます。
熱を出してから6日目のことであったそうです。
ウイルス感染から細菌感染へ移行をしたのか、あるいは、病床で脳卒中を起こしたのか、あるいは、喀痰を気道に詰まらせたのか――詳細はわかりませんが――
とにかく、周囲が予期をしないうちに亡くなったことは確かです。
このために――
康熙帝の臨終に立ち会えたのは、康熙帝の居住地域の警察権を専任で担っていた大臣ただ一人であったといいます。
この大臣が、康熙帝の遺言と称する声明を発します。
そして、その声明を根拠に――正確には、その声明のみを根拠に――雍正帝は後継の座に着きます。
満44歳での即位でした。
雍正帝が、後継の座を実に際どい勝ち方で得たと述べたのは――
そうしたことによります。
件(くだん)の声明を発した大臣は、雍正帝とは以前から親密な関係にあったとみなされていました。
よって、
――あの大臣が遺言を騙(かた)って、自分と親しかった皇子を後継者に仕立てあげたのではないか。
との憶測が飛び交ったそうです。
それくらい――
雍正帝は、後継者争いでは、ダークホースとみられていたのです。
その理由としては――
雍正帝の生母が有力な家の出ではなかったことをはじめ――
雍正帝が、せっかちな性格で、精神面の動揺が目立ち、若い頃、父・康熙帝から叱責を受けていたらしいことなどが考えられます。
おそらく――
父の名に恥じない英邁な君主になるとは、あまり思われていなかったのです。
雍正帝は、どちらかというと、父・康熙帝より、祖父・順治(じゅんち)帝に似ている、と――
僕は感じます。
父・康熙帝のように、国外への大規模な遠征を試みることはなく――
皇帝の独裁体制を地道に固めていくことに専念をした君主でした。
後継者争いの相手であった他の皇子たちは、一人の異母弟を除き、ことごとく失脚に追い込んでいます。
また――
自分を後継者と定めるのに尽くした大臣は――
いったんは重用をしたものの――
その後、傲り高ぶったところなどが目についたら、ためらわず重刑に処しています。
あの「康熙帝の遺言」を発した大臣でさえ――
雍正帝から非を糺され、罰せられ、最後は殺されています。
さらにいえば――
明の時代から受け継いだ官僚機構を骨抜きにし、権限や裁量を皇帝である自身の手元に集めました。
その一方、宮廷の内外に多くの密偵を放つなどし、官吏の監視に熱心であったようです。
また――
父・康熙帝の始めた文字(もんじ)の獄を引き継ぎました。
そのやり方は、父・康熙帝よりも徹底していたといいます。
とくに、“満州地域”から出た一族が中国の全土を支配下に収めている状況に異を唱えた文言は、ことごとく見逃しませんでした。
このような史実が伝わっていることから――